「親鸞聖人にみる十念と一念」8月(中期)

これは、信の一念と行の一念についての、弟子の質問に対する答えです。

ここでまず親鸞聖人は、阿弥陀仏の教えにおいては、信と行は離れては存在しないとわれます。

そして、行の一念と信の一念が、いかに重なっているかを

「行」

という観点から説明されます。

 行と何でしょうか。

それは

「本願に誓われている名号を一声称えて往生するという教えを聞いて一声念仏する」

ことが

「行」

であるとされるのです。

したがって、この行には、弥陀から諸仏へ、諸仏から衆生へ、そして衆生が行ずるという、三種の行が見られます。

 第一は、本願に誓われている行で、

「一声名号を称えよ、あなたを往生せしめる」

という、弥陀が衆生を摂取する大行としての名号の十方への響流です。

第二は、釈尊の衆生に対する行で、

「弥陀の名号を一声称えて往生せよ」

との説法がそれです。

第三は、衆生が釈尊の説法を通して、

「弥陀の名号の真実功徳を聞き信じて、一声称える」

という行です。

 そして、この阿弥陀仏の誓願を釈尊から聞き、名号に乗ずることのみが、自分の唯一の往生の行であることに、疑いの余地がなくなることを

「信の一念」

とされるのです。

そうしますと、信と行は二つですが、行によって

「一声念仏せよ、往生する」

という教えを聞いて、疑いが晴れ信じたのですから、行を離れた信はありえません。

また信によって行の功徳の全体が、その衆生に明らかになったのですから、この信を離れては、行の意義は存在しえません。

ただし、この衆生の信もまた、まさしく弥陀の御誓いによって発起せしめられているのですから、この行と信のすべてが、弥陀本願の行だと、親鸞聖人は解釈されるのです。

 さて、三種の行の内、

第一が第十八願文の「十念」、

第二が弥勒付属の文の「一念」、

第三が本願成就文の「一念」

で、その第二の一念が

「行の一念」

です。

阿弥陀仏の至心信楽欲生の大悲心は、南無阿弥陀仏という名号によってしか十方世界には伝わりません。

しかもその名号を、十方の諸仏国土に伝えるのは、その国土の仏です。

それ故に、この行の一念は、娑婆国土においては、釈尊から龍樹菩薩へ、そして七高僧を通して親鸞聖人に伝承されたのであり、次の仏国土に対して、釈尊が弥勒菩薩にこの行の一念を付属されたのです。