『無量寿経』
に説かれる、十念・一念の
「念」
は、本来的には同一の語意です。
『無量寿経』
の原典では、願生心としての憶念の心を意味し、また善導・法然教学では、南無阿弥陀仏を称える念仏行の意味となっていますが、いずれにせよ同一の聖教にみね
「念」
の意は、すべて同じです。
けれども親鸞思想においては、本願文の十念は称名、成就文の一念は信心、そして弥勒附属の文の一念は称名と解釈されています。
親鸞聖人は、なぜそのようにみられたのでしょうか。
この十念・一念の思想の流れを、本願の十念から附属の一念へ、附属の一念から成就の一念へと捉えられたからにほかなりません。
南無阿弥陀仏の称名は、阿弥陀仏から十方の諸仏国土に響流されます。
その名号は、十方の一切の衆生を摂取する、阿弥陀仏の大悲心の躍動のすがたです。
その弥陀の信楽が名号となって、弥陀から釈迦仏へ伝承されます。
これがほんがんの
「十念」
の意味です。
釈迦仏は、釈迦国土の一切の衆生を救済するために、一声
「南無阿弥陀仏」
を称え、その名号の真実功徳を説法されます。
この説法によって、一声の念仏の真実功徳が、国土の衆生に聞かしめられるのです。
「南無阿弥陀仏」
と称える、その一声の念仏こそ弥陀の大悲心そのものであって、阿弥陀仏がまさしくその念仏者を摂取されていると、釈尊は説法されるのです。
こうして、弥陀の信楽は、一声の称名となって、釈尊から親鸞聖人へ、そして親鸞聖人から私たちに聞こえてきているのです。
これが附属の
「一念」
の意味です。
そうしますと、私たちが称えている一声の念仏は、まさしく阿弥陀仏の信楽の言葉にほかなりません。
成就の
「一念」
は、その一声の信楽を、私が聞き獲得する姿です。
この故に、親鸞思想に見る十念と一念は、あるいは称名となり、あるいは信心と解釈されていても、そこには何ら矛盾は見られないといえます。
では、本願成就文、
あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せむこと乃至一念せむ。
至心に廻向したまへり。
かの国に生れむと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せむ。
にみる
「信心の一念」
をどのように解釈すればよいのでしょうか。