「親鸞聖人にみる十念と一念」8月(後期)

『無量寿経』

に説かれる、十念・一念の

「念」

は、本来的には同一の語意です。

『無量寿経』

の原典では、願生心としての憶念の心を意味し、また善導・法然教学では、南無阿弥陀仏を称える念仏行の意味となっていますが、いずれにせよ同一の聖教にみね

「念」

の意は、すべて同じです。

けれども親鸞思想においては、本願文の十念は称名、成就文の一念は信心、そして弥勒附属の文の一念は称名と解釈されています。

親鸞聖人は、なぜそのようにみられたのでしょうか。

この十念・一念の思想の流れを、本願の十念から附属の一念へ、附属の一念から成就の一念へと捉えられたからにほかなりません。

南無阿弥陀仏の称名は、阿弥陀仏から十方の諸仏国土に響流されます。

その名号は、十方の一切の衆生を摂取する、阿弥陀仏の大悲心の躍動のすがたです。

その弥陀の信楽が名号となって、弥陀から釈迦仏へ伝承されます。

これがほんがんの

「十念」

の意味です。

釈迦仏は、釈迦国土の一切の衆生を救済するために、一声

「南無阿弥陀仏」

を称え、その名号の真実功徳を説法されます。

この説法によって、一声の念仏の真実功徳が、国土の衆生に聞かしめられるのです。

「南無阿弥陀仏」

と称える、その一声の念仏こそ弥陀の大悲心そのものであって、阿弥陀仏がまさしくその念仏者を摂取されていると、釈尊は説法されるのです。

こうして、弥陀の信楽は、一声の称名となって、釈尊から親鸞聖人へ、そして親鸞聖人から私たちに聞こえてきているのです。

これが附属の

「一念」

の意味です。

そうしますと、私たちが称えている一声の念仏は、まさしく阿弥陀仏の信楽の言葉にほかなりません。

成就の

「一念」

は、その一声の信楽を、私が聞き獲得する姿です。

この故に、親鸞思想に見る十念と一念は、あるいは称名となり、あるいは信心と解釈されていても、そこには何ら矛盾は見られないといえます。

では、本願成就文、

あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せむこと乃至一念せむ。

至心に廻向したまへり。

かの国に生れむと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せむ。

にみる

「信心の一念」

をどのように解釈すればよいのでしょうか。