『一念多念文意』
に、この成就文の意味が詳述されています。
それによれば、
「その名号を聞く」
とは、本願の名号を聞くことであり、その本願を聞いて疑う心がまったくなくなることを
「聞」
といい、それは信心をあらわす言葉だとされます。
そして
「信心歓喜せんこと乃至一念せむ」
については、信心とは、如来の御誓いを聞いて疑う心がなくなることであり、歓喜とは身をよろこばしむること、喜は心をよろこばしむることで、やがて必ず得ることを、あたかもすでに得てしまっているように、先に喜ぶ心だと理解されます。
乃至は、多少・久近・前後すべてをかねる言葉であり、一念とは、信心を獲る時の極まりをあらわす言葉だと述べられます。
そしてこの
「一念」と
「聞」については
『教行信証』では、
一念とは、信楽開発の時剋の極促を顕はし、広大難思の慶心を彰はすなり。
経に聞と言ふは、衆生仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし、これを聞と曰ふ。
と説いておられます。
「至心に廻向したまへり」
については、至心とは真実ということで、この真実は阿弥陀仏のお心であり、廻向は、本願の名号を十方の衆生にお与えになっておられる、教法そのものである。
「かの国に生れむと願ず」
るとは、かの国は弥陀の浄土であり、生れむと願ずるは、阿弥陀仏が一切の衆生に浄土に生れよと願われている。
その願いに信順し、まさに自らの全体が、浄土に生まれたいとの願いにつつまれることである。
「すなわち往生を得」の
「すなわち」は、
その瞬間ということ。
「得」
とは、必ず得るであろう仏の法の功徳を、いま得たということで、弥陀はその衆生の往生をこそ願われている。
したがって、衆生が真実の信心を得て、往生を願う瞬間、阿弥陀仏はその衆生を摂取し、決して捨てられることはない。
この故に、獲信するその時に、この衆生は正定聚の位に定まるのである。
そこで法の道理として、念仏者の往生し、仏になるべき功徳を得て、正定聚に住することを
「往生を得」
と釈尊がおっしゃられていると、親鸞聖人は解釈されるのです。