聖道門の人々や定散二善に励む人たちを方便の側において、最も仏教から離れたところにいるはずの阿闍世のような者を真実の側においておられるのですが、これは普通に考えれば逆の見方だと思われます。
実はここに、
「疑情」
や
「邪見憍慢」
とは何かが問題になります。
私たちは
「疑情」
や
「邪見・憍慢・悪」
という言葉からは、人の心を疑ったり、悪いことをする心を想起します。
しかし、親鸞聖人が問題しておられるのは、そういうこととは少し違います。
「疑情」
とはいったいどういうことなのか、このことを明らかにしようとするのが、
「信巻」
の大きな問題です。
そしてこれがまた、
「信巻」
と
「化身土巻」
との分岐点になるのです。
では、親鸞聖人は何を判断の基準において
「疑情」
や
「邪見憍慢悪」
という心を見て行かれたのでしょうか。
親鸞聖人の
『正像末和讃』
の中に、次のような句が見られます。
五濁増(ごじょくぞう)のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀(げぎ)は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬(ききょう)せり
「五濁増」
というのは、この世の中がますます悪くなって乱れていくということです。
その証拠には、今の時代の
「道(僧侶となって仏道を修している者)・俗(俗人のままでの仏教の信者)」
つまり僧侶も信者もすべて、外面的には仏教の教えを守り、仏教を一生懸命に信仰しているように見えるのですが、本心は全く逆で、内面ではすべて外道を敬い帰依していると言われるのです。
ここで外道と仏教の根本的な違いはどこにあるかが問題になります。
仏道はいうまでもなく、流転の法を嫌います。
したがって、この流転を厭離(おんり)する教えが仏教です。
これに対して外道は、むしろこのような流転の教えを欣求(ごんぐ)しているのです。
流転の法とは、世俗的欲望をいかに満たしていくかを教える法のことで、欲望を充足させる中で、喜びを感じて生きていこうとします。
仏教は、このように欲望を充足しようとする生き方の中には真実の喜びはないとして、そのような生き方を否定します。
ここに、仏教と外道との根本的な違いがあります。
そこで、この和讃ではどのようなことが述べられているのかというと、仏教とは本来一切の欲望を否定していく教えであるはずなのに、今の仏教は反対に人間の欲望を満たす方向の中で動いている、と言われているのです。
そういう中にあって、私たちは果たして仏教に何を求めているかを考えていく必要があると言えます。
私たちは、いったい仏教に何を求めているでしょうか。
欲望を満たす方法を求めているか、それとも欲望を否定する方法を求めているか。
こう自分自身に尋ねてみますと、私たちは例外なく、誰しも欲望を満たすことの方を願っている訳です。
これが
「内心外道を帰敬せり」
ということです。
私たちが、今日仏事を営むという時に、どのようなことを仏事として優れている在り方だと考えるでしょうか。
おそらく、先ずは家庭に立派な仏壇を求めるというようなことから考えが始まるのではないでしょうか。
そこで、古い仏壇は捨ててしまって、真新しい立派な仏壇を迎えることで、ご先祖の方々も安心して下さる、というようなことが心の中に浮かぶようでしたら、これは紛れもなく世俗の欲望を満たすという方向に心が動いている証拠です。
また寺院についても、
「自分の所属しているお寺は立派だ」
という時には、これは建物のことを指してそのように言っている訳です。
ですから、国宝・重文に指定されている壮大な建物が立ち並ぶ京都の本願寺にお参りすると
「とても有り難い」
ということになるのです。
つまり、本願寺は伽藍(がらん)も大きく、荘厳も素晴しいということです。
けれども、そういうことを中心に仏教が求められているとしますと、これは仏教が、そして何よりも親鸞聖人が厳しく否定された欲望を充足する方向に陥っていると言わざるを得ないことになります。