それでは学問とか、行道ということではどうでしょうか。
これもやはり位が上がるとか、人々に尊敬されるという面が中心になってきます。
例えば、位の高い僧侶が自分よりも位の低い僧侶に対して、
「礼儀を欠いたと」
言って腹を立てたという話を聞いたことがありますが、こういうのはまさに外道の姿そのものです。
しかし、そのような心しか持てないということが
「五濁増」
の中の仏教者の姿であり、私たち人間のありのままの姿なのです。
さて、そういう中にあって、いったい自分は何をしているのか、ということが問題になってきます。
「外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり」
なのですから、表向きは仏教を一生懸命に学んでいるのです。
別に仏教者が、迷信に凝りかたまっているのではありません。
確かに、仏教者の中には、占いをしたり、お祓いをしたりするような者もいるかもしれませんが、それは仏教者としては外儀も外道そのものなのですから、仏教界からは排斥されてしまうことになります。
そうではなくて、外見的には
「真面目に仏教を学び、真摯に悟りを求め、一生懸命に仏事を営んでいる」
そのことが、内面では外道に通じているということなのです。
これが偽りのない自分の姿だとして、それにもかかわらず私たちは、自分では仏道を一心に修していると思い込んでしまっているのです。
実は、こういう人は極めて真面目な人であって、一生懸命に仏道を修しているのですが、真摯に取り組めば取り組むほど、意に反して外道に帰敬していることになってしまうのです。
しかも、実際には外道に仕えていながら、やがて自分では一心に仏道を修しているのだと思いあがってしまうあり方に陥ってしまいます。
このような思い上がった心を仏教では
「憍慢(きょうまん)」、あるいは
「邪見憍慢」
といいます。
これは、自分では真実の仏法を学びながら、その教えに従わないで自身で勝手な判断を加え、かえってその中であれこれ迷ってしまっている姿です。
つまり、仏道を一心に修しながら
「疑情」
という心に陥っているのです。
こういうことが、仏教では一番怖いのです。
たとえば、聖道門では
「この世で仏になれ」
と教えます。
また、あるいは
「この世に仏国土をつくろう」
と、一心に人々を励まします。
それが現実的には不可能なことであるにもかかわらず、自分は仏道を修しているのだと思い上がっているところに
「邪見憍慢」
の姿が見られることになるのです。
あるいは、こういう場合もあります。
自分はまさに外道の姿をしており、悪の中にいると自覚している。
だからこそ
「この世では絶対に仏に成り得ない」
と、悲しみ恥じらっているとします。
この人は、自分自身の力では仏になることができませんから、自分の外にある仏の大悲を求めて
「どうかこの私を救ってください」
と願います。
この世で仏になることがだめであっても、せめて来世にはよい仏の国に生まれたい。
このような来世への願望が、この人の心に生じてきたとします。
ところが、この心もまた欲望の中で起こっているのですから、たとえどれほど一心に仏さまにすがっていても、結局は外道の信仰と同じものになってしまうのです。
なぜなら、この世を厭い捨てたいと願うのは、それぞれの体験、自分の思いに基づくもので、それはあくまでも自分の夢を追う姿であり、その夢の満たされる世界として浄土を求めているだけに過ぎないからです。
蓮如上人が
「極楽(浄土)は楽しむと聞きて、参らんと願う人は仏にならず」
と仰っておられますが、浄土を目的地とするような歩みは、迷いと惑いを生み出すだけなのです。
したがって、未来に仏になろうとする信仰も、いま現在仏になろうという信仰も、そのいずれもが外道の方向をとってしまっている。
ここに今日の、どうしても自分の欲を満たすという方向の中でしか生きられない、私たちの姿があります。
このような自分の、赤裸々な姿が親鸞聖人には明らかになったのです。
私は、どこまでも自分を中心として、欲望的にしか仏を求めることができません。
自分の外にある仏を求めるか、あるいは外にある仏の大悲によって救われようとするのか。
あるいは、自らの内にある仏をつかもうとするか、そのどれかでしかないのですが、いずれにせよ、その求道はまさに世俗的欲望の中で起こっているのです。
そうであれば、それは外道の道であって、永遠に仏果には至れません。
そして、このように仏教を学びながら、仏道を行ずることも、証果を得ることもできない世が末法なのです。