「教行信証」の構造12月(中期)

「教と行と証」

これが仏教の柱ですが、末法時代というのは、この中の

「行と証」

が存在せず、

「教」

のみがかろうじて残っている時代です。

現在の私たちは、世俗的欲望の心でしか動き得ない仏教者ですから、もはや真の意味での行道は存在しません。

行道そのものが欲望のなせるわざですから、それは仏果に至る行とは成り得ません。

またそれは、真似ごとのような行でもないのです。

欲望をもってするのは、これは偽りの行にほかならず、仏道とは全然違うことをしているといわざるを得ません。

そのような意味で、この世には真実の行と証は存在せず、かろうじて教のみが残っています。

この教のみの仏教において、行と証の成立はいかにして可能なのか。

この点を問題にしておられるのが、親鸞聖人の仏教の構造です。

ところで、この末法時代の仏教の真実、末法の凡夫とは何かということが、法然聖人に出遇われることによって、親鸞聖人に明らかになったのです。

末法の凡夫とは、どうしようもないもの。

欲望の中で苦しみつつ、生きていくことしか出来ないものである。

ここに、親鸞聖人の人間観があるといえます。

ただし、この末法の時代にも、仏の教えはいまだ残っています。

では、その教えの中にどのような行と証が含まれているのでしょうか。

行と証が全くなくなった末法時代の仏教の中で、もし行と証を成立せしめる仏教があるとすれば、それはどのような教えなのでしょうか。

それが

「行巻」

の終わりで示されている

「誓願一仏乗」

の仏教なのです。

この一仏乗の

「一乗」

とは、一切のものを乗せる乗り物という意味ですが、この一は、唯一絶対ということです。

相対的に、一、二、三、四、五という、その中の一ではなくて、それらの数のすべてを包み、それを超越した絶対的なただ一つということです。

ですからこれは、法の究極、一番奥底に輝く真理を示している言葉なのです。

「行巻」

ではこの真理を、また

「究竟畢竟(くきょうひっきょう)」

という言葉で説かれています。

すなわち

「誓願一仏乗」

の法は、一切の根源だといわれるのです。

一切の根源であり、法の究極が阿弥陀仏の法であり、真実の仏の性、仏性だと見られたのです。

さて、この根源としての仏性はすべてのものを覆い包んでいる訳ですから、その包まれている一切、一つ一つにもまた仏性が存在することになります。

仏とは本来、法の究極であり、真理そのもの、真如そのものです。

その真如の性が仏性なのです。

ところで、その真如が一切に遍満しているとしますと、それは同時に、その真如に包まれている一つ一つの一切に仏性が存在していることになります。

今この点を、迷える一切の側から問題にしますと、迷えるものの一つ一つ、その一切がこの究極の法によって、真如の方に吸いよせられていると見られます。

全てのものが、究極の法に向かって動いているのです。

各々がどれほど勝手気ままに動きまわっていても、それらの全てはやがて真如に転ぜられてしまうことになるのです。

そうであれば、個々のものがどちらを向いていようが、それらに自覚があろうがなかろうが、そういうことに関係なく、全てのものは常に真如の法に導かれているのだといえます。

根源の法が、一つ一つにすでに満ちているのですから、個々の一つ一つがまた仏性を持つといわれるのです。

釈尊がこの世で仏になったということは、このような法の働きと、その構造が分かったということだと思われます。

この究極の法の中に自分が既に存在しているのだということがわかった、それがまさに仏になったということです。

それに対して、私たちが迷い続けているのは、この構造が未だ私の全人格において分からないからなのです。