いまひとつ、私達は今日、近世以降真宗教団が主張してきた
「真俗二諦」
の思想に対して、それは親鸞聖人の信心と根本的に異なっていると、非常に批判的にとらえることがしばしばあります。
この場合、例外なくその原点は覚如上人にあるのだとしています。
だが、果たしてそうなのでしょうか。
ここで、親鸞聖人がこの末法の世における
「真俗二諦」
の成立を否定している点に注意しておきたく思います。
なぜなら、覚如上人・存覚上人・蓮如上人の思想は、親鸞聖人がこのように否定された点を起点として展開しているからです。
端的にいうならば、覚如上人・存覚上人・蓮如上人の著述において、基本的には
「真俗二諦」
の言葉は見出せません。
したがって、真宗教団における歴代宗主には、今日いわれているような真俗二諦の思想はなかったと見なければなりません。
ただし、例外として存覚上人には
『教行信証』
の註釈書である
『六要抄』
があり、その
『末法灯明記』
の註釈の部分で、
「真俗二諦」
に対する見解が見らますが、ただしその場合でも
「此の書は是仏法・王法治化の理を演べ、乃ち真諦・俗諦相依の義を明かす。
」
と述べるにとどまっておられます。
結局、私たちの世には、正・像・末という異なった三時があり、また機においても利と鈍の差があるから、真諦と俗諦の関係も
「一法」
のみによって定めることは出来ないとされ
『教行信証』
の意と大きく違うものだとはいえません。
このように見れば、今日批判されているような真俗二諦の構造は、覚如上人・存覚上人・蓮如上人の上には明確には見出しがたいといわねばなりません。
では真俗二諦論で、覚如上人のどのような思想が問題にされているのでしょうか。
一般には、
『改邪抄』
の次の文が指摘・批判の対象とされています。
出世の法では五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)を、世法では五常(仁・義・礼・智・信)を守ることが、日常における人間の道である。
だからこそ、この道理をわきまえて、内心には他力の信心、阿弥陀仏の不可思議さに生かされることが、法然から親鸞へと教えられてきた我々の生活規範である。
だが今日耳にするところによれば、
「世間法」
を忘れて
「仏法」
の義ばかりを重視せよというような風潮が我々の教団にあるようである。
だがそのようなことは絶対にあってはならない。
『末法灯明記』にも、
「末法では仏法の道理はすたれ、意味をなさなくなっている」
と示されている。
親鸞聖人は、仏法者ぶることは全くなされていない。
教信沙弥のごとく生きたいと願われたのが親鸞聖人の心だからである。
このことからしても、我こそは仏法者であるという
「仏法者ぶる」
態度を表面に出すべきではない。
『改邪抄』の大意は、このように受け止めることができます。
この内
「真俗二諦論」
では、前半が問題にされているのですが、覚如上人の言いたいことはむしろ後半部分にあるのであって、前半はただ単に世間の一般常識を述べているにすぎません。
しかも出世の法が真諦であり、世間の法が俗諦であるといった意味は、この文からは読み取れません。
そのような範疇で、出世の法・世間の法といった言葉が使われているのではないからです。
仏法者は、最低五戒を守るべきですし、俗世間では五常を守ることが人間の道です。
真宗者はもちろん、五戒を守る心は持ってはいません。
そこで、五常を守ることが重要となります。
そうだとすれば、この者の生き方は、当然五常を守りつつ、内心に深く他力の不可思議さに生かされるべきだということになります。
だからこそ覚如上人は、真宗者に対して
「ことさらに仏法者ぶる必要はない」
といっておられるにすぎないのです。