親鸞聖人における「真俗二諦」3月(後期)

親鸞聖人の思想の特徴は、すでに述べたように、凡夫が仏になるという仏道に関しては、極めて深い思索を尽くしながら、世俗の世間的生活に関しては、何ら深い関心を示しておられない点にあります。

すなわち、世俗における教説は常識の域をでないのであって、

「ことさらに悪をなしてはならない」

「この身を厭い、悪い心をひるがえし」

て、人間としての善意に努める、といった思想ぐらいしか見出せません。

このことは、親鸞聖人が仏教の理念を世間的生活の次元に持ち込むことを厳しく否定しておられることを示しています。

この世における最も悲惨な悲劇は、愚かな人間が仏や神の名においてなす教条的(原理・原則を絶対のものとする考え方)行為です。

もし人が錯覚して、誤った仏教の原理を押しつけ、それを人々に実践させるべく強いたとすれば、それこそとんでもない過ちを犯すことになるといわねばなりません。

私達は今日、どのような立場から真宗者の

「真俗二諦」

を捉えようとしているのでしょうか。

その多くは、親鸞聖人の真俗二諦の立場に立てといわれます。

けれども、その真俗二諦論は、真実信心の智慧の立場からこの世における悪の構造を正しく見極めて、徹底的にその悪を排除しようとする実践的行為を信心の念仏者の姿だとするものです。

けれども、それはむしろ危険な思想だというべきで、親鸞聖人にそのような真俗二諦の立場があるのではありません。

そこで、親鸞聖人の思想に見る世俗とのかかわりは、次のようにまとめることができるように思われます。

『すでに真実信心を獲得している念仏者は、もはや自分自身の往生を願う必要はなくなっている。

だからこそ念仏の功徳は他に向けられるべきで、自分自身の幸福を求めるのではなく、ただひたすら朝家のため御ため国民のため、念仏の真実を讃嘆すべきであり、さらに御報恩のために、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれかしと、願うべきである』

そのためには、念仏の真実が他者に誤解されるようなことがあってはなりません。

世間一般の人々が、念仏者の生き方にふれて、その輝きに自ずから引き寄せられるような、そのような生き方がもとめられるのです。

ことに地方の中心者、領家・地頭・名主等は、仏法の真実を聞き学ぼうとする心を持っていません。

だからこそ、この者に誤解を与えるような振る舞いは絶対に慎むべきで、諸仏・諸神を疎かにしたり、わざと好んで悪をなすといった行為は、決して行ってはならないのです。

なぜなら、領家や地頭や名主がもし誤って念仏を弾圧すれば、彼らこそがまさしく地獄に落ちなければならないからです。

ただし、念仏者がどのように努力しても念仏への弾圧がひどくなるような場合は、

「この地域では念仏の縁が尽きているのだ」

と思って、立ち去ればよいのです。

間違っても、念仏の法を広めるために教えの真実を曲げたり、権力者に媚び諂ってはならなりません。

「余のひとびとを縁として、念仏を広めんとはからいあわせたもうこと、ゆめゆめあるべからず」

なのである。

いかに領家・地頭・名主が念仏者に

「ひがごと」

を行ったからといって、百姓を惑わすようなことはしません。

そして念仏の法門は、そのような外からの弾圧に破られるようなことはありません。

仏法者が破られるのは、あたかも獅子身中の虫が獅子を食らうがごとく、仏法者の堕落によってのみ、その仏法が破られていくからです。