この
「行信に帰命する」
ということは、衆生がはからいを捨てて、
「南無阿弥陀仏とたのむ」
ことにほかなりません。
ここに衆生が、阿弥陀という真如との法と一体になっている姿がありますが、それは同時に、弥陀が
「行者のよからんとも、あしからんともおもは」
ないで、そうするためにはからわれている姿でもあります。
そうしますと、阿弥陀がこのように帰命する衆生を攝取しないはずはありません。
だからこそ、このような衆生を、攝取して捨てたまわない仏を、
「阿弥陀」
となづけたてまつるのです。
ここに衆生のはからいなど入る余地は絶対にありません。
そこで、この称名念仏の法理を『歎異抄』の第八条は
「念仏は行者のためには非行非善なり」
と説きます。
念仏は、行者が何々のために行じる行為ではなくて、
「南無阿弥陀仏」
の音声が、弥陀のはからいそのものだからです。
『教行信証』
「信巻」
には、この弥陀と衆生の関係が、より詳細に次のように説かれています。
凡そ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず。
男女老少を簡ばず。
造罪の多少を簡ばず。
修行の久近を論ぜず。
行に非ず善に非ず。
頓に非ず漸に非ず。
定に非ず散に非ず。
正観に非ず邪観に非ず。
有念に非ず無念に非ず。
尋常に非ず臨終に非ず。
多念に非ず一念に非ず。
唯これ不可思議不可称不可説の信楽なり。
喩えば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。
如来の誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。
この文で、大信海のはたらきに関しては、二重の構造が見られます。
「大信海」
という如来の心の働きと、その
「大信海」
に対する衆生の心の働きが、同時に語られているからです。
前者では
「簡ばず。
謂はず。
問はず。
論ぜず。
」
と述べられ、後者で
「…非ず。
…非ず。
」
と語られています。
前者は、
「自然法爾」
の文に見られる
「行者のよからんとも、あしからんともおもはぬ」
に重なっています。
この文は、阿弥陀仏の
「御ちかひ」
について、弥陀のはからいはただ
「南無阿弥陀仏とたのませたまひてむかへん」
ということであって、その行者の善悪は問題にしないとされています。
この阿弥陀仏の大悲の心が、より具体的に
「大信海」
の釈で語られているのです。
「貴賤緇素・男女老少・造罪の多少・修行の久近」
は、人間社会にみる差別構造の根本原因になる諸要素ですが、阿弥陀仏の本願は、その救いにこれらの要因の一切を、全く問題にしません。
それは、人間社会では、人々はこれらの差別の構造の中で迷い苦しみ歎き悲しむですが、その衆生の全体を無条件で平等に救うはたらきこそが、この弥陀の
「大信海」
だからです。