そうであるからこそ、ここで最も厳しく否定されるべき行為が、その大信海に対する衆生のはからいということになります。
後者は、
『歎異抄』
第八条の
「念仏は行者のためには非行非善なり」
の文に重なりますが、ここに示される
「行・善・頓・漸・定・散・正観・邪観・有念・無念・尋常・臨終・多念・一念」
の語はすべて、仏道としての行に関する重要な言葉です。
仏道においては、普通、行者は常にこれらの行為に真剣であらねぎなりません。
そうでなければ、仏道者としての行道は成り立ちません。
果たして
「この行は仏果に至る行であるか否か。
真の善根であるか否か。
頓教であるか漸教であるか。
定善の行とは散善の行とは。
この行は正観であるか邪観であるか。
有念の心とは無念の心とは。
尋常の行とは臨終の行とは。
多念がよいのか一念がよいのか。
」
自らの行について、このような一心の求めがあって、初めて真の行道の実践が可能になるのです。
ところが、親鸞聖人はこれらの求道の一切を、愚かな凡夫のはからいだと見られます。
末法の凡愚は何人も真実の智慧は持ちえないからで、このような求道のはからいは、かえって迷いの積み重ねになってしまいます。
だからこそ、この凡夫が阿弥陀仏の
「大信海」
によって、無条件で攝取されるのです。
その弥陀の信楽は、衆生の思議の一切を超越しているが故に、ただ
「不可思議不可称不可説」
としかいいようがありません。
けれども如来の心は常に、衆生を無上仏にならせようとして、阿弥陀という仏の相を示し、衆生の心に来たっています。
それは、あたかも
「阿伽陀薬」
のように、この誓願の薬は、一切の衆生の智愚の毒を滅してしまうのです。
そうであるからこそ、この信楽の信知は、衆生のはからいの否定の上においてのみ成り立つのです。
さて、
「自然法爾章」
を通して、親鸞聖人の阿弥陀仏観を求めましたが、それは自然法爾という、真如のはたらきそのものだったといえるのではないかと思われます。
真如が一切の衆生を
「無上仏にならしめ」
として、その無上涅槃の真理を知らしめるために、阿弥陀という仏の相好を現されましたが、このように無上仏にならしめる、その真如のはからいが、まさに
「南無阿弥陀仏」
であったといえます。
そうしますと、阿弥陀仏の存在は、南無阿弥陀仏を離れてはありえません。
場所的に、あるいは時間的に、宇宙のどこかに阿弥陀仏という仏がましますのではなく、真如の無限の大悲大行がいま現に衆生を救うために
「南無阿弥陀仏」
と相を示して躍動している、その躍動する南無阿弥陀仏を、親鸞聖人は阿弥陀仏そのものと見られたのだといえます。