7.往相の証・還相の証
浄土教者にとっての真の念仏道は、証果を得て、はじめて始まるといわなければなりません。
証果、それは獲信することなのですが、まさにここから念仏道が始まるのです。
では、その獲信者にとっての真の念仏道とは何なのでしょうか。
ここで、獲信者とは、何かが問われるのですが、獲信することは、往生が決定することです。
そして往生が決定するということは、正定聚の機になるということです。
そうしますと、正定聚の機は、もはや自らの往生を願う必要はなくなります。
未だ往生が確かでないものは、一心に往生を願わなければなりませんが、すでに往生が定まった者は、自身の往生を願う必要はありません。
このように見ますと、獲信者の念仏道は、自分の往生を全く問題にしていないことが窺い知られます。
例えば、学校を卒業しますと、誰も卒業したいということは思いません。
既に卒業してしまったのですから、どうすれば卒業できるかと思う必要はないのです。
そうしますと、獲信者の念仏道はただ一つになります。
それは、自分のために念仏を称えるのではなく、未だ信を得ていない衆生のために念仏の真実性を説法することです。
獲信することによって、初めて念仏者の真の行道が始まるのですが、その真宗者の行道とは、未だ信を得ていない衆生のために念仏の真実性を伝えることがそのすべてになるのです。
しかもその念仏道は獲信した者によってのみ、はじめて可能な道です。
獲信した者のみが、未信者に対して、自分が聞信して明らかになった念仏の功徳を説法することができるからです。
この念仏道の実践が、真実証の内実ではないかと思われます。
ところで
「証巻」
を繙くと、そのほとんどは還相廻向の説明であって、往相廻向については、ほんの少ししか書かれていません。
それはなぜかというと、獲信の念仏者の実践は既に
「行巻」
で書かれているからです。
つまり、往相廻向の実践行は
「行巻」
で詳しく説かれているので、親鸞聖人にとってはあえて
「証巻」
では説明する必要がなかったという訳です。
ここで、獲信者と未信者の関係を、法然聖人と親鸞聖人から、親鸞聖人と唯円との関係に置き換えて考えてみたいと思います。
そうしますと、今度は親鸞聖人が獲信者の側に、唯円が未信者の側に置かれます。
そこで『歎異抄』の第二条の
「十余箇国のさかひをこえて」
という場面が想起されるのですが、ここで唯円が関東から京都に親鸞聖人のもとを命がけで訪ねたのは、まさに親鸞聖人が法然聖人のもとに行かれたのと、全く同じ構造になります。
この場合の唯円には、行は全くありません。
その唯円に対して、親鸞聖人が一方的に説法をされるのです。
では、この念仏行は親鸞聖人にとって、いかなる行になるのでしょうか。
この行こそまさに、報恩行だといえるのではないかと思われます。
このようにみると、報恩行を成しうるのは、結局獲信者のみということになります。
しかも獲信の念仏者は、この報恩行の中で大行の念仏を語っているのです。
この場合、獲信者においては、報恩の念仏と大行の念仏は重なるのですが、未信者においては、その大行の念仏は他から来ることになります。
獲信者は、大行を語り、未信者は大行を聞くのみだからです。
このように、信を得た者が慶んでする念仏が報恩行であり、報恩の念仏がそのまま未信者に対する阿弥陀仏の説法となるのです。