さて
「教巻」
冒頭の文ですが、
「つつしんで往相の廻向を案ずるに」
に見られる廻向は、阿弥陀仏のはたらきを意味します。
この阿弥陀仏の往相廻向には、行と信と証があるのです。
ところで、この阿弥陀仏の
「行信証」
を得た者は、阿弥陀仏の浄土に往生します。
それは、阿弥陀仏の廻向の証の功徳を得ているからなのですが、その証果の功徳として往相の念仏者には、説法をする廻向行がそなわることになります。
これが、浄土教にみられる大乗菩薩道です。
『歎異抄』の第四条には、慈悲について聖道の慈悲と浄土の慈悲があるといわれます。
そして、聖道の慈悲は素晴らしいが、凡夫にはその実践は不可能であり、私たち凡夫には浄土の慈悲しかないと説かれます。
この道理は、一応理解することができます。
ところが、では浄土の慈悲とは何かというと、それは念仏を称えてはやく浄土に生まれることだと言われます。
そうすると、それは死後の問題になりますので、私たちには素直には納得しかねます。
文面を表面的に受け取ると、このように困惑することになりかねないのですが、この言葉は決してそのようなことを言っているのではありません。
ここでいわれる浄土の慈悲とは、
「ただ念仏することだけだ」
ということを意味しているのです。
では、念仏申すみとはどのようなことなのでしょうか。
ここで、例えば弘法大師(空海)や伝教大師(最澄)、それに道元禅師や栄西禅師といった聖道諸師の仏道を思い浮かべ、そこに法然聖人や親鸞聖人の念仏道を重ねるのです。
そのとき、果たして真の仏道を誰が成し得たかということです。
この場合、四人の諸師の立ち位置はいずれも聖者です。
それに対して、法然聖人や親鸞聖人は、どうしようもない愚かな凡夫なのです。
ところで、では誰が真の仏道をより広く伝えることができたかということになると、すべての者が念仏するだけで仏になるという、阿弥陀仏の本願を説かれた、法然聖人であり、親鸞聖人であったということになるのではないでしょうか。
この点より見て、念仏を説くことのみが、末法の世における唯一の大乗菩薩道になるのだと言えます。
これは、証を得た者が南無阿弥陀仏を称え、南無阿弥陀仏の法の真実を伝えることによって、一切のものを仏果に導くという行為が、この世において凡夫にもできるということです。
したがって、この世で本当に菩薩道を行ずることができるのは、念仏者のみだということになります。
そして、この念仏者の姿がまさに往相の姿ということになるのです。
私たちは、信を得れば往相の念仏者です。
ただしそれは、あくまでも往相の念仏者であって、未だ浄土の菩薩でも還相の菩薩でもありません。
しかし、この往相の念仏者のみが、大乗の菩薩道を行じることができるのです。
そうしますと、還相の廻向は、必然的に亡くなってから後の問題になります。
では、還相の廻向と私はどのように関係することになるのでしょうか。
親鸞聖人は『教行信証』の中で
「往相の廻向について真実の教・行・信・証あり」
といわれます。
その意味でこの証は往相の廻向の
「証」
ということになるのですが、その往相廻向の証に、還相廻向を含む構造がここに導かれるのです。
還相は、死後の問題です。
そうであれば、今は関係ないことになるのですが、にもかかわらずそのことが
「証巻」
において延々と説かれているのはなぜかということが次の問題になります。