お釈迦さまは、いろんな譬えで人生の厳しさを説いておられます。
『比喩経(ひゆきょう)』というお経の中にある「一夫四婦の譬え」もその一つです。
これは有名な話で、そこには一人の男と、その婦人四人が登場します。
第一夫人は常時、自分のそばに置いてたいへん可愛がっていました。
第二夫人も、第一夫人に劣らないほど自分のそばに置いて親しんでいた女性です。
第三夫人は、第一、第二夫人程ではないにしても、時々会っては語り合う関係でした。
第四夫人は、こき使い倒して顔も見ないほどでした。
やがて、男が死ぬ時がやってきました。
ところが男は自分一人で死ぬのが寂しいわけです。
そこで、最も寵愛していた第一夫人に「一緒に死んでくれないか」とお願いしました。
ところが第一夫人は
「他ならぬあなた様のことでございます。どのようなこともお聞き届けさせて頂きますが、一緒に死ぬことだけはお許し下さい」
と、するりと願いをかわしてしまいました。
男は次に、第二夫人に
「お前も第一夫人と同じくらい大切にしてやった。第一夫人は一緒に死んでくれようとはしなかったが、お前はワシと一緒に死んでくれるよな」
と言いました。
ところが第二夫人も、
「第一夫人でさえお断りになったのです。私は第二夫人でありますので、お許し頂きたい」
と冷たく断ってしまいました。
同様に、第三夫人にも
「村はずれまでお供いたします。それから先は勘弁して下さい」
と断られました。
第四夫人には
「お前には少しもかまってやれなかったが、ワシと一緒に死んでくれないか」
と頼みました。
すると
「あなた様と一緒に死んでさしあげましょう。よろしゅうございますよ」
という返事が返って来たということです。
この話、お釈迦さまは何を譬えておられるのかといいますと、第一夫人は人間がこの娑婆で一番大事にしているもの、すなわち自分の肉体であり、第二夫人は肉体の次に大事な財産です。
しかし、肉体にせよ財産にせよ、いずれもこの世に残していかなければなりません。
第三夫人が村はずれまで「お見送りをしましょう」と言ったのは、火葬場まで送るということです。
いくら親類であっても、あの釜の中に入る人はいません。
火葬場の鉄の扉が閉まったら、みんな背中を向けて帰っていきます。
私も住職ですので、ご門徒の方を火葬場まで見送りをさせて頂きますが、
「娑婆ではここまでの付き合いじゃったが、お浄土で待っててくれよ」
という思いで火葬場の鉄の扉に手を合わせます。
それならば、
「あなたと一緒にお浄土までお付き合いをさせてもらいましょう」
と言った第四夫人は何かといいますと、それは「心」です。
「心に眼(まなこ)開けよ」ということです。
どういう眼を開くかといいますと、あなたがたの心にお浄土が見える眼を開きなさいということです。
そうでなければ、永遠に別れていかざるを得ません。
これがお釈迦さまの「一夫四婦の譬え」です。