「宗教と人生」(下旬) 人生の行き着く先は阿弥陀如来のお浄土

 

 蓮如上人のお書きになられた『御文章』にも

「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。

されば死出の山路のすゑ、三途の大河をばただひとりこそやきなんずれ。

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり。

またたのむべきは弥陀如来なり。

信心決定してまゐるべきは安養の浄土なり」

と、このような言葉が出てきます。

 『御文章』を拝読しておりますと、「後生の一大事」という言葉が何度も出て参ります。

これは分かりやすく言うと、死んだらどうなるのかということです。

どうなるのかというと、如来さまのお浄土に生まれさせていただくのです。

そのことに眼を開かせていただくところに、人間として生まれた究極の目的があるということを「後生の一大事」という特徴的な言葉で語っておいでになるのです。

 「後生(ごしょう)」は「今生(こんじょう)」に対する言葉です。

私たちは、この今生のことを一生懸命にしている訳でしょう。

しかし、今生きている世は無常です。

私たちが手に入れようと求めているものは、物もお金も、何もかもが永遠ではなく、限りがあるものです。

いつまでも大切な人、親兄弟、家族と一緒にいたいと思っていても、お互いに別れなければならない時が来ます。

みんな滅んでいくのです。

 『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。

おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし』

「平家物語」の有名な冒頭の部分です。

当時栄華を誇っていた平清盛の率いた平家は、ついには源氏によって壇の浦で滅ぼされてしまいました。

 これを通して、この世のすべての現象は移り変わり、あらゆる存在には限りがある。

どんなに栄えていても、やがて滅んでいくものであるということを、祇園精舎、お寺の鐘の音や、沙羅双樹の花の色で表しています。

そして、世の中の現実はこれと同じだということを歌っているんですね。

 その現実に対して「後生の一大事」つまり、今生のいのち終わって後、私たちが生まれさせていただける世界があります。

そこは滅ぶことのない永遠の世界です。

それこそが、阿弥陀さまのお浄土です。

 心にお浄土が見える眼を開かせていただく。

人生の行き着く先をお浄土と見据えて、精一杯歩ませてもらうところに、私たち人間が人生を歩むすわりがあるのです。