「宗教と人生」(上旬) 夫婦とは谷川に流れる落ち葉のようなもの

======ご講師紹介======

普賢晃壽さん(龍谷大学名誉教授)

☆演題 「宗教と人生」

昭和六年、滋賀県生まれの普賢さんは、昭和二十九年に龍谷大学文学部真宗学科をご卒業。

その後、龍谷大学において、文学部教授、文学部長などを歴任。

日本浄土教と親鸞思想の研究をご専門とされる名誉教授として、龍谷大学に籍を置いて学生の指導にあたっておられます。

また、滋賀県の浄土真宗本願寺派行願寺のご住職でもあられます。
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人生のことを娑婆(しゃば)といいます。

娑婆とは(古代・中世にインド亜大陸において公用語として用いられたインドの言葉)サンスクリット語で「サーハー」と発音するものを漢字に当てはめたもので「耐え忍ぶ世界」という意味です。

私たちの人生は、何もかも思い通りにいくような日暮らしは送れません。

むしろあれもせんとあかん、これもせなならんと、99パーセントが苦しいものでしょう。

そして、その中に厳しい別れの現実「愛別離苦」があるわけです。

 それは「愛しいものとのわかれ」の苦しみです。

私は、娑婆の現実というのは「邂逅(かいこう)と別離」、つまり出会いと別れの繰り返しだと思います。

出会いがあれば、必ず別れの時がくるのです。

これは決して避けて通ることの出来ない厳しい現実であります。

人と人の娑婆における出会いと別れの中で一番重いのは何かというと、それは夫婦の出会いだろうと思います。

 大学の教授をしておりますと、教え子に

「先生、結婚することになりました。ぜひ結婚式に来てください。スピーチをお願いします」

と頼まれます。

そしてそのスピーチの場で、私はいつも次のようなお話をしています。

 夫婦のご縁というものは、谷川に流れる落ち葉のようなもので、向こう岸から一枚の葉がポトリと落ちる。

こちらの岸から一枚の葉がポトリと落ちる。

それが川の真ん中で一緒になる。

それが娑婆での出会いです。

「オギャー」産まれたとき、お互いの連れ合いがどこにいるかなんてわかりません。

 いろんなご縁で巡り合いをさせていただいて、夫婦の日暮らしが始まるわけです。

落ち葉が流れる途中、よどみに入ってピタッと動かないこともあるように、人生はなかなか思い通りにいきません。

そこで、やはり努力したものに花が咲く訳です。

落ち葉もよどみに入ってじっと辛抱していると、風が吹いてまた川の中に押し出されます。

 そしてしばらく流れていって、岩場にさしかかったら大騒ぎです。

会社の重い仕事の責任、親の介護、子どもを育てあげないといけないなど、そういう日々を経て、大きな流れの中を進んで行くわけです。

しかし、それも長くは続きません。

やがて力尽きた方は川の底に沈んでいかざるを得ないのです。

 どちらかが一方を送らなければならない時が必ず来ます。

昔の和歌に

「あるときは ありのすさびに語らわで なくてど人の 恋しかりける」

というのがあります。

お互いに元気なときは、いつでも語り合うことが出来ると思い、いたずらに年を重ねていた。

やがて片方が亡くなってしまい、後になって、もっと語り合っていれば良かったと歌われたものです。

それが娑婆のありさまです。

 でも、それで終わったら寂しいですよね。

お念仏申す者には、ある一つのことが教えられています。

それは、再び会いまみえることができる世界です。

早いか遅いかの違いはあっても、如来さまのお膝元で再びめぐり会う世界を恵まれているのがお念仏申す者の世界であります。

 私たちが再び巡り会うことのできる世界、お浄土を人生の帰着点として、人生を一生懸命やらせていただく。

その途中には愛しい人との別れ、避けて通ることのできない苦しみがいろいろあるけれど、それをどう乗り越えていくのかということ。

そしてお互いが巡り会う尊い世界があるということを教えて下さったのが、親鸞聖人が開かれた浄土真宗の教えだと思います。