こうして、鹿児島時代と大奥時代が終わりました。
でも、これで終わりではないんです。
東京時代となるここにも天璋院の仕事があるんです。
徳川家は存続が許されて、彼女は跡継ぎとなる田安亀之助(たやすかめのすけ)六歳を養育することになります。
その子を立派な徳川家第十六代当主(後の徳川家達)として育てなければなりませんから、大変な仕事です。
明治十年、家達が十六歳になると、天璋院は彼をイギリスに留学させます。
イギリスからは、たくさんの品々が天璋院のもとに送られてきました。
家達は彼女のことを本当の母親のように思っていた証拠ですよね。
そして家達を送り出して三年後の明治十三年、彼女は嫁いで以来初めて東京を離れます。
おそらくは生まれ故郷の鹿児島に行きたかったことでしょう。
しかし明治十年に西南戦争があって、鹿児島は焼け野原になっていました。
鹿児島の人々の悲しみを考えると、どんな顔をして帰れば良いのでしょうか。
家達をイギリスに送り出した後、鹿児島に帰ることが出来たとしても、徳川家の御台としてはとても帰れなかったんでしょうね。
この時は、伊豆のある温泉に行きました。
といっても、温泉に入りに行った訳ではありません。
実は、そこで一番可愛がっていた和宮がわずか三十一歳の若さで亡くなったんです。
自分より十一歳年下のかわいい嫁でした。
共に政略結婚で子をなさず、結婚生活も短いものでしたが、立派な子どもを育てたんです。
子をなさない母親が子どもを育てあげたということですよね。
現在の徳川家に残っている、明治十三年の天璋院の日記に
「私は胸がふさがり、懐旧の涙が袖を絞るほど溢れるのを押さえることができなかった」
と描いてあります。
その温泉の近くには早川という流れの速い川がありました。
そこで彼女は歌を詠んでいます。
「君が齢とどめかねたる早川の水の流れもうらめしきかな」。
これが姑の天璋院が嫁の和宮に送った追悼の歌です。
イギリスから家達が帰ってきた後、天璋院は最後の仕事をします。
家達の嫁として近衛家から近衛泰子を迎えて、その娘を育てて結婚のお膳立てをしました。
そして明治十六年、四十九歳の生涯を閉じました。
その翌年、明治十七年に近衛泰子と徳川家達の婚礼が盛大に行われました。
このように、鹿児島時代、大奥時代、東京時代と揺るぎない人生を送られた方が、鹿児島の薩摩おごじょ、天璋院篤姫です。