そして三つめは、どんな人でもまた会いたいという気持ちになるということです。
浄土真宗では、お浄土でまた会えると説いてございますが、こういう気持ちではどんな人にもあると思います。
世間ではよく天国、天国と言いますが、僕は天国にはあまり行きたくないです。
天国は宮沢賢治の
『銀河鉄道の夜』
に書かれています。
タイタニック号の乗務員が銀河鉄道に乗ってきて、やがてサザンクロスという南十字星の駅が近づいた所でみんな降りて行くんです。
ところが、女の子と男の子は
「降りたくない」
と言います。
ジョバンニと仲良くなったからです。
そのときジョバンニが『銀河鉄道の夜』で
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。
僕たちもっといいところを知っているよ」
と言ってます。
これが『銀河鉄道の夜』の本心なんです。
ほとんどの研究者には白鳥座からサザンクロスにかけて、十字架から十字架に行く物語として理解されています。
でも賢治はその天国というものを受け入れていても、天国をどこかに終着点があってもう会えない、バイバイと別れなくちゃいけない所として表現してるんです。
一方で、どこまでも一緒に行けるという世界を仏教の浄土の中に見出した訳です。
あなたは天国に行きたいでしょうか。
僕はそういう二度と会えず、離ればなれになる終着点のような所には行きたくないですね。
浄土は私たちの苦しみや悲しみをすべて海のように清らかにしてくれる世界、そしてまた会える世界です。
こういうことを亡くなった人は願っているのではないでしょうか。
僕の母のことを話させて頂きますが、母は最後の十年くらいはずっと寝たきりで、介護の毎日が続きました。
僕は母の介護もあり、神戸から京都まで二時間近くかけて通勤しています。
時には忙しさから、母の顔を見ずに出かけることもあります。
母はそんな僕に
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
と言い、帰って来たらいつでも
「お帰り。大変やったね」
という言葉を届けてくれるんです。
そういう言葉の中に、どれだけ深い母親の愛情があるのか、四十歳になってようやく気がついたんです。
僕が母の部屋を訪ねて行くと、母はいつもニコッと笑って、学校で教えるのも大変やろと言って慰めてくれました。
大変なのは自分の方なのにね。
食べるのでさえ、食べさせてもらわないといかんような中で、いつも微笑んでいました。
僕だけではなく、家族全員が、その微笑む姿に本当に大きな勇気をもらいました。
「世間が見捨てても、仏さまがついている。
何があっても仏さまが護ってくれる」
と、そんな母でした。
そういう意味では
「行ってらっしゃい」とか
「お帰りなさい」
という言葉が、どれだけ深い愛情なのかということを、僕たちはもう一回考え直して見るべじゃないかと思います。