「限りなきいのち〜死を超えた慈悲〜」(下旬)深い悲しみ、苦しみを通して見えてくる世界がある

人間は、どんな人も病気になって動けなくなります。

自分をなくしていき、どうして私がこんな眼にあうんだろうと思う日が来ます。

それでも、ただ動けなくなり、思うようにならなくなるだけじゃないんです。

何も出来なくなっても、大切なことに気がつくんですよ。

それが母の場合、

「何があっても仏さまが護ってくれている」

「大変やったね」

という言葉の中にこもっている訳です。

そして、それを受け継いでいくのが僕たちの仕事です。

さて、最後に、そういう死に直面した人の言葉を紹介したいと思います。

これは、平野恵子さんの

『子どもたちよありがとう』

という詩です。

彼女はガンを患い、三人の子どもを残して死ななければなりませんでした。

そのとき、彼女がいったいどういう気持ちであったのかを感じ取っていただきたいと思います。

平野さんは、こう書かれています。

「たとえ、その時は抱えきれないほどの悲しみであっても、いつかそれが人生の喜びに変わるときがきっと訪れます。

深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。

そして、悲しむ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていて下さる大地のあることに気付いてください。

それが、お母さんの心からの願いなのですから。

お母さんの子どもに生まれてくれてありがとう。

本当に、本当に、ありがとう」

普通、死に直面したら、死を受容するとか、そういう風に思われるでしょう。

けれど、平野さんは何も出来なくなっても、最後まで子どもを心配する母親でいたかったんですね。

そして、どれだけ深い悲しみでも、その悲しみに大切な喜びがこもっているということを教えてくれています。

人はいつか死んで行くんです。

しゃべれなくなるし、動けなくなります。

しかし、人間というのは、何も出来なくなって、ただ死んで行くだけなのでしょうか。

僕はそうは思いません。

限りあるいのちであるということに気がついて死を自覚した人は、限りなきいのちになっていきます。

限りなきいのちを賜って、光り輝いていくんです。

だから聖典に

「限りなきいのちをたまわり、如来の大悲にいだかれて、安らかに日々をおくる」

と書いてあるのではないでしょうか。

限りなきいのちは、阿弥陀如来だけじゃありません。

僕たちはみんないつか死んでいきますが、誰もが限りなきいのちを賜るんです。

僕たちみんなが輝いていくんです。

感謝し、すまなかったと慚愧(ざんぎ)しながら、愛情を継ぎの世代にバトンタッチしていく。

これが僕たちの最後の努めになるのではないでしょうか。