『仏説無量寿経』の中に
「当相敬愛(まさにあい敬い愛すべし)」
という言葉が説かれています。
お互いが敬い、お互いが愛し合うということの大切を説き示されたものです。
一般に、
「汝の隣人を愛せよ」とか
「人類愛」
とかいう言葉を見たり聞いたりすることがありますが、その
「愛する」ということの根底に
「相手を敬う」ということを置くのが仏教の基本姿勢です。
では、相手の人を心から敬うということは、いったいどのようにすれば可能なのでしょうか。
日々の生活を振り返ってみますと、私たちは他の人々と関わる中で、いつでも何らかの意味で他の人々を見下すか、あるいはうらやむかのどちらかを選択しているのではないでしょうか。
つまり、相手を敬うことなく、その人よりも自分が上か下かを比べながら、周囲の人たちと接しているという事実が知られるのです。
曇鸞大師の著された『浄土論註』の中に
「それ忍辱(にんにく=苦悩・迫害を耐え忍んで心を動かさないこと)は端正(姿・動作などが整ってきちんとしているようす)を得。
一たび彼(かしこ=浄土)に生ずることを得れば、瞋忍(しんにん)の殊(ことなり)無し。
人天の色像、平等妙絶なり」
と説かれています。
普通に考えると、自分の苦しみやつらさに耐えて、人々のために努力を重ねてきた人や、自分の楽しみを捨てて、つらさをすべて受け止めながら人々のために尽くしてきた忍辱の人は、その心の徳として、姿かたちが端正になるということは素直に頷けます。
けれども、我がままいっぱいに自分の要求ばかりを周りに押しつけて、年中腹を立てては文句ばかり言っている瞋恚(激しい怒りの心)の人が、浄土に生まれると同じように端正なすがたを得ると言われると、首を傾げたくなります。
ところが、曇鸞大師は、浄土にひとたび生まれるならば
「瞋忍のことなり無し」
と言われます。
つまり、腹ばかり立てている人と、生涯自分の苦しみに耐えながら人々のために尽くしてきた人が、浄土に生まれるとその違いがなくなり、共に端正な顔を得ると言われるのです。
一般的には、これはどうにも不公平なことだと感じられます。
けれども、浄土とはその不公平だと感じる私の心を問う世界なのです。
実は、これを不公平だと感じさせるのは
「私は耐えてきた」
という思いです。
あの人は自分勝手なことばかりしてきたが、私は一生自分の思いを押さえて、ひたすらいろいろなことに耐えてきた。
だから、同じであることに納得がいかないのです。
ところで、もし自分の中に
「私は耐えてきたのだ」
という自負があるとすると、その意識は果たして
「浄らかな心」だと言えるでしょうか。
「耐えてきた」という思いを握りしめて、自分は
「こうなんだ!」
と、耐えてきた苦しみを前面に主張するというあり方は、実はその心に自分自身が苦しめられているのです。
『歎異抄』の第9条に、
「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく…」
という言葉があります。
「苦悩の旧里」なのですから、誰もが一刻も早く捨てたいと思うものです。
ところが、ここでは
「すてがたい」と述べられています。
それは、なぜなのでしょうか。
考えてみますと、私たちは自分が耐えてきた苦しみほど手放せないものはないのです。
「自分ほど苦しみに耐えてきたものはいない」
「この私の苦しみは誰にも分かるものではない」
というように、私たちは良いことだけでなく、悪いことも独り占めしたいのです。
まさに、そのような自身に執着する心根を押さえたのが
「苦悩の旧里はすてがたく」
という言葉です。
そうすると
「瞋忍の殊無し」
ということを不公平だと思うのは、自分が耐えてきた苦しみというものに対して、自分のそういう耐えてきた心を握りしめて
「この心は誰にも分かるものではない」
と、自分を主張する心の所為に他なりません。
確かに、わがままいっぱい自分勝手に生きてきた人も、自分のことしか頭にないのですが、必死に苦難に耐えてきた人も、結局はその根底において自分を握りしめているのですから、まさに
「瞋忍のことなり無し」
どちらも同じということになる訳です。
つまり
「私はこうなんだ」
と自負する一方、
「あなたはこうではないか」
と主張することの一番根底にあるのは、結局
「分別心」です。
それは、いつも目の前の全てを二つに分けて、自分の物差しではかろうとする心です。
日頃の自身のあり方を振り返りますと、私たちはいつもあの人はこうだが私はこうだと、二つに分け比べて、最後には
「私の方が…」と主張します。
たとえ、周りの人に向って強く主張しなくても、心の中ではそういう自分をしっかりと握りしめています。
そこには
「相手を敬い愛する」
という心は、欠片も見出すことは出来ません。
では、そのような私に、本当の意味で生きているすべての人々を敬うということは、どうすれば可能になるのでしょうか。
それは、私自身のいのちに対する尊さというものに目が開くということにおいて、初めて可能になるのだと思います。
なぜなら、自分のいのちを尊ぶことが出来なければ、他の人のいのちを敬い尊ぶことなど出来るはずがないからです。
また、他の人々を敬うことができなければ、同時に本当の意味で他の人々を愛することもできないと思います。
人間にとって、他の人々とふれあう中で、そこにお互いが敬い合い、お互いが愛し合うという協同の世界というものが、本当に願わしい世界だとすると、それは何よりも自分自身のいのちの尊さに目が開かれることが不可欠なのです。
さて、私たちは今私の人生を私が生きて行くということに、喜びを持ち得ているでしょうか。
また、自分自身のいのちを尊いものと感じることができているでしょうか。
親鸞聖人は
「念仏の教えに出遇うものは、決して空しく過ぎるような人生を送ることはない」
と言われます。
お念仏の教えに真摯に耳を傾けることを通して、私たちは初めて自分自身のいのちの尊さというものに気付き、そこから周囲の人々と敬い合い、共に生きる同朋(なかま)として支え合いながら生きることが出来るようになるのだと思います。