親鸞聖人の十念思想 3月(2)

そこで、信の一念・行の一念の関係になるのですが、実はこの両者の関係の全体が行とは何かの説明になっているのです。

いったい、行と何なのでしょうか。

それは

「本願の名号を一声称えて、往生すと申すことをききて、一声をもとなえ、十念をもせん」

ことで、この全体の行為を行というのです。

つまり、

「行」

というのは阿弥陀仏の本願の働きであり、一声名号を称えよという勅命です。

その

「名号を称えよ」

という弥陀の声を聞いて、私たちは念仏することになるのです。

そして、その聞いた瞬間が信の一念ですから、

「一声念仏せよ」

という声を聞き信じて、一声念仏するその全体がまさしく阿弥陀仏の行の働きによってなさしめられているということになります。

したがって、衆生の信の一念も行の一念も、すべて阿弥陀仏の働きによることになるのですが、ここで重要なのは、その働きの根源にある

「一声名号を称えて往生せよ」

という行の一念になります。

私たちが一声名号を称えるということは、その勅命を信じて称える一声になるからです。

だからこそ、行の一念・信の一念の全体が、阿弥陀仏の働きとして示されることになるのです。

それは、行も信も阿弥陀仏の働きそのものだということです。

ところが、今日私たちはその行信の関係を人間の側からとらえてしまっています。

宗学の

「十念誓意」

「行の一念」

がそうですが、そこでここの文もまた

「信心正因・称名報恩」

の義で理解してしまうのです。

けれども、ここで親鸞聖人はそのようなことを述べておられません。

行の一念と信の一念、これらは二つであるが離れないといわれます。

離れないというのは、

「名号を一声称えよ、往生せしめる」

という声を聞くということですから、私たちが阿弥陀仏の本願の勅命を聞くその瞬間に、阿弥陀仏の大行と私の心が離れないで成立しているということです。

信じてから念仏を称えるということは必然の道理ですから、そこに不離を考える必要はありません。

浄土真宗では

「信心正因・称名報恩」

を説いて、真実の信心を得た者は、必ず報恩の称名を称えよと、信心と名号の不離を強調し、一生懸命その道理を説法するのですが、それはある意味では無意味なことです。

たとえば、信心をいただいたという人がいて、もし名号を称えないのなら、それは未だ信心をいただいていないだけのことだからです。

信心をいただけば、必然的に名号は称えられるのです。

したがって重要なことは、阿弥陀仏の名号を信じることであり、阿弥陀仏の働きをいかに聞くかということになります。

だからこそ、行と信とは離れては成立しないのです。

教義として西本願寺の場合は、法の全体を阿弥陀仏の働きで解釈する

「法体大行の義」

を非常に大切にしています。

ところが、そのように解釈しながら、しかもその阿弥陀仏の働きを、私が称えるというところで捉えてしまっています。

このため、行信の問題が非常に観念論的になってしまうのです。

私がここにいて、向こうにある阿弥陀仏を常に眺めているようなことになってしまっているのです。

「阿弥陀仏が本願を起こし、名号と法体大行によって、私をお救いになる。

私たちは、その信ぜしめ行ぜしめている阿弥陀仏の本願を喜び報恩の念仏を称える」

このように、行信の問題が客観的に静的にとらえられているのが、伝統の宗学のあり方だと言えます。