親鸞聖人の獲信の構造について、時間の流れの中で考えてみます。
当然、過去・現在・未来ということになりますが、
「今(現在)」
という時点を押さて、そこに親鸞聖人の獲信の世界を重ねてみます。
ここでいう
「今」
とは、親鸞聖人が阿弥陀仏の本願と出遇われた時点のことです。
この時点で、親鸞聖人の心は、それ以前の自分とそれ以後の自分とに、はっきりと分かれています。
これは
(16)本願を信受するは前念命終なり。即得往生は後念即生なり。(『愚禿鈔』)
『愚禿鈔』に見られる思想です。
善導大師の
「前念命終、後念即生」
という言葉を解釈して、獲信以前の心と獲信以後の心とをはっきり分け、本願の真実を聞き、信受するということは、今までの迷いの心の一切が破れ、その自分の命が終わることだと述べておられます。
そして、そこでその時、浄土に生まれるという、全く新しい信を得た喜びの心になるといわれるのです。
つまり、獲信以前と獲信以後の姿は、全く変ってしまうのです。
ここで、まず獲信以後の念仏者は、どのような念仏道を歩むかを問題にします。
この念仏者は、すでに阿弥陀仏の本願の心を獲得しています。
今、本願に出遇っているということは、阿弥陀仏の本願が、自分の心に充ち満ちているという真理をすでに聞いたということだからです。
この故に、獲信後の親鸞聖人は、阿弥陀仏のこころに満たされた親鸞聖人になるのです。
この獲信者の姿を、親鸞聖人は
「正定聚の機」
と呼ばれます。
そして、その信心を獲得した者は、その瞬間に十種の大きな御利益を獲るとも述べられます。
(17)金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超へ、必ず現生に十種の益を獲。何ものか十とする。
一には冥衆護持の益、二には至徳具足の益、三には転悪成善の益、四には諸仏護念の益、五には諸仏称賛の益、六には心光常護の益、七には心多歓喜の益、八には知恩報徳の益、九には常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。(「教行信証」)
この中で、殊に重要なのが最後の三つの益です。
第八の知恩報徳の益、第九の常行大悲の益、第十の入正定聚、この三つの御利益を獲るのです。
三つの中では
「知恩報徳」
が根本で、恩を知ることがとても重要になります。
ここで、時間の流れに着目します。
獲信とは、
「仏願の生起本末を聞く」
ことだと言われます。
その聞く内容は、私を救うために阿弥陀仏がどのような願いを起こされたかということです。
発願の根源は、まず無上仏である真如そのものが動いて法蔵と名のり、兆載永劫の行を修して、阿弥陀仏となります。
真如が阿弥陀仏になるということは、南無阿弥陀仏という名号となって、私の心に飛びこんで来るということですが、救いの法である名号の真実を教えるために釈尊が悟りを開き、
「ただ念仏して弥陀の浄土に生まれよ」
という教法を私のために説法されます。
迷える私を救うための、弥陀・釈迦の大悲心が、まさに私の心に徹入していることをはっきり頷くことが
「仏願の生起本末を聞く」
ということになるのです。
聞くことによって、私たちは初めて自分一人のために宇宙の全体が動いているという、無限の恩を知ることになるのです。
無限の恩を知ると、ここに必然的にその恩に報いるという心が生まれます。
この点を殊に重要視する必要があると思われます。
それは、報恩行をいったい誰が成しうるのかということなのですが、それは信心の行者のみです。
したがって、未だ信を得ていない者にとっては報恩の行は存在しないのです。
ただ、信を得た者のみがよく報恩行をなしうるのです。
では、その報恩行とは何なのでしょうか。
獲信の念仏者は、今この私を救うために宇宙の全体が動き南無阿弥陀仏となった、その真理を聞いています。
阿弥陀仏の大悲そのものの中で、私が生かされているという真実に今頷いているのです。
獲信の喜びとは、その名号の功徳を喜ぶことですから、報恩の行とは、その喜び頂いた名号の功徳を直ちに、他に伝えることになります。
その直ちに伝える行の実践が
「常行大悲」
です。
したがって、念仏を伝えることは、獲信の念仏者だけがよく成しうるのです。
なぜなら、獲信の念仏者は、自分が念仏を喜ぶ身となったその恩をまさしく知り得ているからで、恩を受けたことを知った瞬間、その念仏の法門を無限に他に伝えるという
「常行大悲」
が行われるのです。
そうすると、報恩行と常行大悲の行とは実は同じであることが知られます。
そして、この常行大悲の実践者が、まさに正定聚の位に住している者の姿になります。
この意味から、獲信者は何をするかということになりますが、それはただ未信の者に対して、念仏の真実を説き続けるということになります。
念仏の真実を説き続けるという実践が、信を得た者の姿になる訳です。