次に、では未だ信を得ていない者はどのような姿をしているかということが問題になります。
そこで
「前念命終後念即生」
に至るまでの
「未信の私」
に注目します。
この未信の私の姿には、
「報恩行」
は成り立ちません。
なぜなら、自分は今、往生するために一心に念仏を行じているのですが、その心は迷いでしかないからです。
そのため、いかに一生懸命念仏を称えても、そこには自分の往生する道は開かれていません。
また、この者の称えている念仏は、報恩の念仏ではありませんし、往生のための念仏でもありません。
けれども、この念仏者は今、一心に南無阿弥陀仏を称えています。
では、未信者にとって、この念仏はいったい何を意味するのでしょうか。
この場合端的には、南無阿弥陀仏はこの未信の者に対して、どのような願いを持っておられるかということを考えればよいのです。
そうすると、ここでやはり阿弥陀仏の大悲心が問われなくてはなりません。
阿弥陀仏は常に未信の者に対して、その者を救うために働いておられます。
阿弥陀仏から未信者へ働きかける、その躍動の姿が南無阿弥陀仏という名号です。
したがって、未信者にとっては、自身の称名がそのまま
「念仏を称えて救われよ」
という阿弥陀仏の願いのはたらきであり、阿弥陀仏の側から自分が喚ばれている声となるのです。
これが、いわゆる本願招喚の勅命といわれる阿弥陀仏からの喚び声です。
阿弥陀仏は、その喚び声の中で
「ただ念仏して浄土に生まれよ」
と未信者に願っておられます。
けれども、悲しいことに、未信者はこの阿弥陀仏の声を直ちに聞くことは出来ません。
そこで、阿弥陀仏の喚び声を釈尊の説法を通して聞くことになるのです。
このように、阿弥陀仏の喚び声は、釈尊の説法によって私たちの心に届くのです。
このことから釈尊の説法を
「弥陀の招喚」
に対して
「釈尊の発遣」
と言い表しています。
そこで、大行とは阿弥陀仏が衆生を往生せしめる働きであることから
「大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり」
と言われるのですが、この言葉の意味は、念仏は弥陀回向の大行であると同時に、名号を聞いて浄土に生まれよと勧めておられる釈尊の大悲の行でもあるのです。
そういうことからしますと、第十八願の全体は阿弥陀仏の働きであり、
「乃至十念」
は選択本願の行ということになります。
本願の
「乃至十念」
は、まさに阿弥陀仏から来る選択本願の行なのですが、この選択本願の行こそが、衆生が浄土に生まれることのできる唯一の行だということは、私たちにとってはただ釈尊の説法のみによって明らかになるのです。
このような意味で、釈尊の説法が浄土真実の行になるのです。
南無阿弥陀仏は選択本願の行であって、第十八願の働きです。
それに対して、
「弥陀の声を聞いて往生せよ」
というのは釈尊の勧めであり、第十七願の行になります。
ただし、その南無阿弥陀仏は、釈尊の説法を通してのみ私たちに来るのです。