真宗講座親鸞聖人の十念思想(4月中期)

ところで、人間は

「弥陀の招喚」と

「釈迦の発遣」

という二つの大悲の中で念仏の教えを聞かされることになるのですが、愚かな私たちはその念仏をそのごとく仏の声としては聞くことが出来ません。

どうしても、私が称えている行だと理解してしまいます。

ただし、念仏を我が行としてとらえている限り、いかに念仏行に励んでも私の心は清浄にはなりませんし、往生の確かさは得られません。

そこで、一心の念仏行がかえってこの私を苦悩のどん底に落としめることになるのです。

そのため、結局この者は行に破れ、信に破れて、苦しみの中でどうすることも出来なくなるのですが、このとき、もしこの私と同じ苦しみを持ちながら、しかもその来るしみを超える、念仏の喜びを持っている念仏者に遇うことができたとするとどうでしょうか。

必ず、その獲心の念仏者は、苦しむ私と同じ次元に立って、念仏の真実を語ってくれることになることと思われます。

これが、親鸞聖人にとっての法然聖人との出遇いということになります。

私たちは、自分と同じ立場に立って念仏の真実を語ってくれるような縁に遇うということが、今一つ必要になります。

そういうことからしますと、未信の念仏者にはもちろん報恩の行はないのですが、その一方仏になる行もありません。

そこで、この未信の者にとって仏になる可能性は、私と同じレベルで語られる獲信者の念仏の教えをただ聞くのみということになります。

この獲信者が、善知識です。

だからこそ、未信の者にとっては、ただ聞法のみになるのですが、その聞法する者が弥陀の声を聞き、釈尊の声を聞き得るのは、善知識の教えを通してのみになります。

私たちにとっての善知識とは、

「正信偈」

や和讃で讃えられる七高僧であり、親鸞聖人です。

そこで、その教えを、教えのごとく聞くことが重要になります。

その中で、自分という人間が、いかに愚かな人間であって、仏になるには阿弥陀仏の本願に依るしかないということが、初めて分かるのです。

そして、この本願の真理の分かった瞬間が、

「仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし」

という心です。

未信者が善知識に育てられて本願の真理に頷く、それが

「仏願の生起本末を聞いた」

瞬間ですが、そこで全く新しい私に生まれ変わるのです。

それは、自らが獲信の念仏者になるということです。

そして、そこから始まる獲信の念仏者の道が

「常行大悲」

の実践です。

ここに、親鸞聖人の信の思想の特徴があります。

未信の者は、阿弥陀仏の大行を聞き続けるのですが、獲信の瞬間からは、その阿弥陀仏の大行を語り続ける。

そして、この念仏者の全体が、常に阿弥陀仏の大悲の躍動の中で生かされているということです。

このように見れば、浄土真宗の念仏と信心は常に動的に躍動しているということが出来ます。

ところが、今日の宗学はそうではなく、まず自分の信心の状態を作ることを重視しています。

自分の真実の信心の姿を描いて、その心を静止させてしまう。

そして、それから何をするのかというと、その真実信心の心をもって、向こうから来る阿弥陀仏の法をいただくことになります。

そこで初めて、いただいた喜びの心で念仏を称える。

これが称名報恩の思想ですが、その報恩とは、ただ喜んでそこで終わってしまっています。

未信の念仏者は、不実の心しか持っていません。

そのため、真実の心で念仏をいただくことは出来ないのです。

けれども、そうではなく不実の心に念仏の真実か来るのです。

そして、その法の道理を信知することが、信心なのです。

だからこそ、獲信の念仏者は、獲信後、その念仏の真実を語り続けることになるのです。

これが、親鸞聖人の明らかになさった報恩の念仏の意味です。

したがって、獲信の念仏者には、静的で清浄なる心で

「嬉しい、嬉しい」

と念仏を喜んでいる暇などありません。

常に、有縁の人々に念仏の真実を語り続けるのです。

ここに、非常に動的な親鸞聖人の獲信の構造が見られます。