真宗講座親鸞聖人の十念思想(4月後期) 大乗菩薩道

では、浄土真宗の教えの一番の特徴はどのようなところにあるのでしょうか。

(18)ここを以て論主は、広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。

宗師は大悲往還の廻向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。

(「教行信証」)

これは、『教行信証』

「証巻」

の最後に出てくる言葉で、

「他利利他の深義」

について述べられているものです。

「他利利他の深義」

というのは、浄土真宗の仏道の全てということです。

ここで親鸞聖人は、浄土真宗の菩薩道を示しておられます。

大乗の仏道は、菩薩道であって、菩薩道以外に仏道はありません。

では、菩薩道とはどのような在り方なのでしょうか。

それは、自利利他の実践であって、自利利他の行道こそが菩薩道そのものなのです。

それに対して、浄土真宗の菩薩道とは何かということが、ここでの問題になります。

なぜなら、浄土真宗では自利の実践は成り立ちません。

そのため、愚かな凡夫には、自身が一心に行道に励んで仏果に至る道は存在しないのです。

私たちが仏果に至る全ては、阿弥陀仏の本願力によります。

この道理を私の立場から考えますと

「他利」

になります。

他の力によって、私が利せられるのです。

他の力、阿弥陀仏の働きによって、私たちは信を得るのです。

この道理を阿弥陀仏の側から言いますと

「利他」

になります。

他を救うのは、阿弥陀仏の働きです。

それを人間の側から見ますと、他が私を救うことになります。

したがって、浄土真宗における凡夫の仏道は

「他利」

しかないのです。

他から仏への法が来るのです。

それ故に、凡夫はその教えを聞法するのみになるのです。

浄土真宗の仏道は、なぜ聞法のみなのでしょうか。

それは、私の仏道である本願の力が他から来るからで、そのため聞法しかないのです。

ところが、その

「他利」

を領受した人は、その瞬間に

「利他」

に転じることになります。

他から念仏をいただき、その念仏を他に施す、ここに浄土真宗の仏道があります。

「自利利他」

ではなく

「他利利他」

になるのです。

浄土真宗の教えの最も深い点は何かというと、自らの証果において

「他利利他の深義」

がはっきりと分かるということです。

「真実証」

とは、自己の全体で阿弥陀仏の本願の真実が明らかになることです。

だからこそ、獲信の念仏者は、その証果の真実、念仏の心を他に語ることが出来るのです。

ところで、菩薩道としての

「利他」

の条件は、自分の心に利己心を持ってはならないということです。

それがまさに、凡夫の利他行を困難にしているのですが、念仏を語る心には、利己心は必要ありません。

自分自身に何の損もないので、ただ念仏の素晴らしさを語ることが出来るのです。

念仏の喜びを語る場合は、自分の心を全く問題にしないで、念仏の真実のみを語ることが出来ます。

愚かな人間は、迷いの心しかもっていません。

そこで、他人の難義を救うような場合は、無意識のうちに

「私は良いことをした」

と思ってしまいます。

けれども、お互い念仏を喜び合っても、そこには何の力みも生まれません。

何のわだかまりもなく、何の利己心も持たないで、愚かな凡夫がただ淡々と、念仏の真実を語ることが出来るのです。

しかも、この実践こそが浄土真宗の菩薩道だとすれば、凡夫がまさしく行じることのできる仏道とは、ただ念仏のみになります。

それは、浄土真宗の念仏者が唯一、大乗の菩薩道を歩くことができるということです。

そのような念仏の道を、私たちは親鸞聖人から教えられているのです。

つまるところ、一声

「南無阿弥陀仏」

と称える。

その念仏が、阿弥陀仏が私を摂取する大行です。

そして、その念仏こそ、弥陀の大悲・疑蓋無雑の信楽が、私の心に徹入しているすがたです。

この名号の真実を聞いて、疑いの余地がなくなる瞬間が私の獲信であり、このとき私は正定聚の機になります。

釈尊は、この真理を説法されるのですが、獲信の念仏者もまた、この念仏の喜びを人々に語り、共に往生の道を歩むのです。