話は戻りますが、五番目は宗教寛容教育です。
今、日本には、外国人がいっぱいいて、いろんな宗教の方がいっぱいます。
そういう人達に寛容でないといけない。
ドイツでは公立でも宗教教育をしていますが、小学四年生になると、イスラム教とユダヤ教について、キリスト教の授業で教えることになっています。
これはとてもいいなあと思います。
この五つの宗教教育の中で、宗派教育以外は公立の学校でも十分できるんじゃないかと思っています。
しかし、今の子どもたちに宗教について本質的なことを教えられるかというと、本当に難しいですね。
本来は、お寺とか教会といった宗教者が教えることであって、学校の教師には無理だなあという気もするんです。
ただ、なんとか学校で少しでも宗教の本質的なことを教えられないかと考えますと、方法としては、まず
「信じない」
ということを教えてはどうかと思います。
例えば、私立学校の先生の中には、新入生に対していきなり
「宗教は素晴らしいですよ」
と教える先生がいるんです。
たいていの子どもは
「ちょっとやばいな」
と思います。
変な学校に入ってしまったと。
少し馴れてきてからは
「あの先生ははまっているからしょうがない。一時間我慢しよう」
と、下を向いて時間が過ぎるのを待っている生徒が私立学校には結構多いんです。
それは、先生たちが信じ込ませようと思って教えるからですね。
これは東京にあります浄土真宗本願寺派の千代田女学園の宗教家の先生に聞いた話ですけど、
「信じない」
ということを教えていくと、生徒の方から
「先生、夢を奪わないで」
と言ってくるんだそうです。
それがその先生にとっては
「しめた」
ということらしいのです。
つまり、人間は
「信じない、信じない」
と教えていくと、不安になってくるんですね。
やっぱり何か信じない訳にはいかないんじゃないかと深く考える訳です。
結局、人間というのはどうしても信じたくなる存在だと思うんですね。
病気だとか肉親が死んだとか、あるいは心配ごとがあると、私たちはどんなに強い人でもつい何かを信じたい、祈りたいとなりますね。
だけど、それでいいかといえば、それだけじゃないと思います。
お釈迦さまの時代というのは、呪術的なものがいっぱいうごめいていて、そういう社会の中にお釈迦さまは生れた訳ですよね。
その意味は何かということです。
お釈迦さまは、呪術的なものを認めなかった人だと思うんです。
お釈迦さまは、それを迷いだと言ったのです。
この精神を私たちは思い出すべきではないかと思っています。
私がかつてお伺いした学校で、大分県の日田というところに大谷派系の昭和女子高校というのがあります。
ここの若い宗教家の先生がこういう授業をやっていました。
四月の末頃で、ちょうど花まつりが終わった後でしたから、新入生を対象に花まつりについてお話なさっていたんです。
まだ三十代の若い先生でした。
お釈迦さまがどうやって生れたかという伝説がありますね。
右脇から生れて、生れ落ちたらすぐ七歩歩いて
「天上天下唯我独尊」
と言ったお話です。
このことを彼は説明して、その後で
「これは全部ウソです」
と言うんです。
「お釈迦さまは決して妖怪変化ではありません。
私たちと同じ人間なんだから、ちゃんとお母さんのお腹から産道を通って生れてきました。
生れてすぐ七歩歩いたなんてこともありません。
言葉もしゃべれなかったはずです。
だからこそ、お釈迦さまの教えは偉大なんです」
ということを、とうとうとしゃべる訳なんです。
私はその授業にとても感動しました。
とかく仏教の授業というと、まずお祈り、手を合わせましょうとかいった儀式のことばかりになりがちなんです。
でも、この若い先生は、仏教とはそういうものではないんだと。
お釈迦さまは非常に科学的な人だったし、そんな夢物語のような人じゃないんだと一生懸命に教えるんですね。