「宗教をどう教えるか」(下旬)この世のために

私は、基本的には宗教というのは、信じるものだというふうには思っていないんです。

では宗教とは何かというと

「信じるもの」

じゃなくて

「気付くもの」だと。

そして、了解することだと考えているんです。

もし

「ガンで、余命半年ですよ」

と言われたときを考えてみてください。

誰でもそういわれると、がっくりきますよね。

泣きわめいたり、人によっては祈とうをしてもらったりと、いろいろなことをします。

しかし、しばらくたつと

「まあしょうがないなあ」

という気持ちになってくると思うんですね。

このように静かに受け入れると、野望や野心、金儲けとか争いとかいうものはどうでもいいやという気になると思うんです。

この状態が、私は浄土に近いんじゃないかと思うんです。

親鸞さんの言葉でいうと

「色もない、形もない、薄墨色の世界」

というようなものではないかと思うんですね。

そして、しばらくたつと

「せっかくだから、この世のために何かしておきたい」

と考えるようになると思うんです。

孫のため、息子のため、さらには隣近所のためとか。

これが大事じゃないかと思います。

浄土真宗には往相と還相という言葉があります。

私は、ガンを静かに受け入れるというのが往相だと思うんです。

つまり、浄土のような気分になる。

その気分を忘れないで、欲も争いも空しいということを知った上で、現世の社会に何かを尽くそうということ還相ではないかと思っているんです。

この還相ということを土台に教育というものを考えられないかということなんです。

実際ガンにはなっていなくても、そういうことを想像して、このよのなか思うと、教育というのもずいぶん違ってくるんじゃないでしょうか。

そして、絶望とか死ということについて、学校でもっと教えるべきだと思うんです。

学校では希望とか未来というものはばかりを教えて、絶望や死、つまり人間は必ず死ぬんだということを教えることがほとんどありません。

これからの学校は、若いときから死ということを自分のこととして考えることのできる人間を育てて行かなければならないと思います。