「悲しみの感動よろこびの感動」(上旬)本当の悲しみは

ご講師:高千穂正史さん(仏厳寺住職)

人生で一番大切なのは

「健康」

という人が多いです。

何と言うても健康だ、お金じゃないぞ。

確かにそれもそうでしょうね。

健康は大事、どんなに長生きしても病気は辛いですし。

しかし

「健康第一」

というのは間違いですよ。

健康第一というなら、その健康が壊れた、病気になったらその人の人生は真っ暗闇ということです。

私は、健康がつまらんと言うているのじゃない、健康は大事なんです。

健康第一、お金第一、趣味第一、それぞれ大事だけど第一じゃない。

「第一」なのは何だろう。

それは

「いのちの感動」です。

それは今、日本人全部忘れている。

感動というのは、魂が揺すぶられるような感動です。

「ああ!」

という感動です。

今日は

「悲しみの感動よろこびの感動」

というテーマをあげてみました。

私が長い間、親鸞聖人から教えて頂いた感動。

それを皆さま方と味合わせて頂きます。

親鸞聖人の宗教、信仰というものは非常にきちっとした論理的なものです。

しかし、裏から見ますと、非常に大きな感動というものがあった、こういうふうに味わっています。

親鸞聖人のお書きになった中心的なお書物を『教行信証』と言います。

その中で、親鸞聖人は三つの感動を語っておられます。

最初は「悲しき哉」です。

この「哉(かな)」というのは感動の言葉です。

「悲しき哉、愚禿鸞」

で始まり、実に名文なんです。

「悲しい」

悲しみは感動でしょうね。

人生というのは、浮かれて便利で贅沢して生きていますけど、ある意味では悲しい面がありますよね。

私は結婚して男の子を三人亡くしているんです。

生まれては死に、生れては死にました。

どうしても生きていくことが出来ない。

そりゃ悲しいです。

その頃、昭和三十年頃は、まだ子ども用のお棺がないんです、だから、お菓子箱に錦を敷いて、小さい子どもを入れました。

まだ妻は入院しておりますし、一人で火葬場に行くんです。

今は火葬場もきれいですけど、昔は汚くてね。

小さい箱を持ってしゃがんで順番を待つんです。

生きることの出来なかった小さな子どもを抱えて。

ああいう悲しみというのは辛いですね。

人間というのは、そうそう良かこつばかりないですな。

悲しいもんですよ。

私のように、冗談ばっかり言っている男にもね。

「君見よ双眼の色語らざれば憂いなきに似たり」。

これは

「あの人の目をじっと見てご覧なさい。冗談ばっかり言っているけれども、目の奥に深い悲しみがありますよ」

という意味です。

私の好きな言葉で、良寛さんがきれいな字で書いています。

ところがね、親鸞聖人がおっしゃった悲しみというのはちょっと違います。

そういう世の中のいろいろなことと違います。

ご自分を痛まれたのです。

私ぐらい愚かな者はいない。

私ぐらい浅ましい者はいない。

私は仏さまになるどころか、仏さまから一番遠い所にいる生き物だ。

このようにご自分を

「悲しき哉」

と痛まれたのです。

これは大事なところです。

親鸞聖人は自分が悲しいとおっしゃった。

本当の悲しみの感動を味合われたのです。