「悲しみの感動よろこびの感動」(中旬)「異星人」と思え

その次、二番目の感動は

「誠なる哉」です。

これは真実ということです。

仏さまのお心ひとつが真実だといわれるのです。

自分が少し気の利いた人間ならいいですよ。

でも、そうじゃない。

どうしようもない私を仏さまの真実が抱いていて下さるという感動です。

仏さまだけですよ。

どんな時でも、私を抱いていて下さるのは。

「有難いな、ナンマンダブ、ナンマンダブ」

という世界です。

子や孫でもね、お小遣いをやる時は

「ばあちゃん」

と言って寄ってきます。

でも叱ったりしたら

「クソババア」

と言うんですから。

一生懸命した揚げ句。

とにかく

「悲しき哉という私が誠なる哉」

という事実に目覚めていく。

この不実なる人生、不実なる私において、仏さまのお心だけが誠であり、真実であるということに出遇えた喜び、それは感動です。

この世の中で、何が頼りになるかというと、それはたったひとつ仏さまの真実心だけではないかということです。

私は、家族も大事だと思うんですよ。

家族も大事、お金も大事ですよ。

お金とういうものは大事なものですが、また恐ろしいものです。

本当、私はそう思います。

お金だけではないですよ。

人生は。

健康だけでもないですよ。

健康もまたうろついていく。

子や孫だってそうです。

私達はお金に心を奪われ、人からどう思われるからとか、つまらないことで肩に力をいれて居ます。

だから、真実は仏さましかいないんです。

最後に、これがまたいい言葉です。

「慶ばしい哉」といわれます。

これは「悲しき哉」という私が

「誠なる哉」という仏さまに出遇わせて頂いた、

「悲しき哉」

というこの不実な、浅ましい私が尊い仏さまの誠に抱かれているという慶びなんです。

慶ばしい、これに出遇わないと。

人生というのは、この世の中にこのことを聞きに来たんです。

私は今、九十四歳の母と暮らしています。

母は、とても元気でしっかりしています。

ただ、この会場においでの肩で介護の経験もある肩もいらっしゃるかもしれませんが、この十五年くらい夜がとても困るんです。

夜になると、急に気分が悪くなるんです。

そういうことは精神科のお医者さんにきくと、よくあることなのだそうです。

もう毎晩、困り果てています。

でも、昼はとてもいいばあちゃんです。

もし皆さんが、昼間に私を訪ねて来られたら、そら見事にいい挨拶をすると思いますよ。

もうピシャとします。

それが夜になると、どうしていうぐらい凄まじく怒ります。

人間が生きているということは大変なことですよ。

私に甘えているんだと思います。

十五分母の部屋にいないと大変ですから。

「まさふみさん」

と私を呼びます。

「お母さん、なんね」

と言いますと、

「おったかな」と…。

私は本の原稿を書いたり、いろいろと仕事がありますが、なかなか出来ません。

そこで、母の前で仕事をすると、また怒るんです。

だから、母の腰かけている椅子の横に何もせず腰かけていないといけない。

今日はどうしても原稿の締め切りがあると思って自分の部屋で原稿を書いていても、ものすごく怒ります。

「私ば好かんとだろう。

芯から好かんとだろう。

さっきから、いっちょん来ん」

といって怒ります。

そしてね、あれは多分どっかで計算しているんだろうと思いますけど、私が嫌だなと思うことを言いつのりますよ。

例えば

「早う死なんかって思うとっとだろう」

って言います。

皆さん、笑われますけどね。

人間はどうなるか分らんのです。

今笑った人が、そういうおばあちゃんになるかもしれないんです。

いや、本当にそうです。

親鸞聖人は、

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」

とおっしゃっておられます。

人ごとじゃないんです。

友人の精神科医師のお医者さんに聞くと

「おふくろさんと思うけん、お前がくたびれとったい。

もう違う人格に変っているんだから異星人と思え」

と言います。

でも

「別の星から来た人」

思えますか。

皆さん。

思えないです僕には。

自分の母親をよその星から来た人だなんて、冗談じゃない。

私にとっては、おふくろですよ。

大切なおふくろなんです。

ただ…、やっぱりね、いいおふくろであって欲しいという思いはあるんです。