そこで、親鸞聖人の言葉だけをそのまま口うつしにして、
「この念仏にはからいを加えてはいけない」とか、
「自力の念仏ではなく他力の念仏でなければならない」
といい、あるいは自身を既に獲信した者とみなして、獲信者の念仏のみが真実であるとか、報恩感謝の心で念仏を称えることを教示することになります。
ところで、このような場合、その教えを受ける人が、もし
「他力」「獲信」「報恩」
等の真意がよく理解できていなかったとしたらどうなるでしょうか。
このような念仏義は、逆に衆生にとって
「はからいの種」になるのではないでしょうか。
さらに、念仏の真・偽は、衆生の気分によって左右することができるということになってしまいます。
この意味からしても、念仏が仏廻向の行であり、衆生のはからいを超えて真実であるという不動の真理、言い換えると、一切の念仏が
「大行」であるという念仏の他力義は、どのような場合にあっても絶対に動かすことは許されないのです。
今少しこの点について、角度をかえて求めることにします。
『歎異抄』の第9条に説かれている事柄ですが、弟子の唯円坊は親鸞聖人に念仏を称えても一向に踊躍歓喜の心が生じてこないという、念仏者としての根源的な疑問を
念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこころおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらうやらん。
と尋ねています。
これに対して親鸞聖人は
『自分にも同じような疑問がわいてきたのであったが、よくよく考えてみると、それ故にこそ私たちはまさしく「往生は一定」であり、阿弥陀仏は必ず私たちを摂取されるのだ信じるべきである』
と、答えておられます。
その理由について、
よろこぶべきこころをおさへてよろこばせざるは煩悩の所為なり。
しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
と、述べておられます。
煩悩は常に真実を見る目をくるわせます。
凡夫とは、その煩悩の中でしか生きられない者です。
阿弥陀仏の誓願は、この凡夫を救うために成就されているのです。
そうすると、弥陀は仏の法を聞き、念仏の教えに導かれながら、しかもなお世俗の欲望に惑わされ、必死になってこの世の苦悩にしがみつくことしかできない凡夫の心を、既に見通しておられるといわなくてはなりません。
「仏かねてしろしめして」というのは、この点を端的に指しています。
この一言によって、阿弥陀仏の大悲の無限性が明白に知られます。
釈尊の仏教からすれば、一声の念仏でもよく、一歩の歩みでもよく、清浄なる心をもって仏道を行じる。
これが仏教者の仏果に至りうる最低の条件です。
けれども、凡夫は臨終の一念まで、一片の清浄性を持つことができません。
そこで弥陀は、その条件までも取り除かれて、浄土の道を開かれました。
この故に、阿弥陀仏の救済を
「無条件の救い」と呼ぶことができます。
ところで、この
「無条件の救い」に関しても、今日私たちはともすればある錯覚に陥っています。
「無条件の救い」というのは、どこまでも阿弥陀仏の大悲のはたらきの無限性を示す言葉です。
しかし、それをそのまま救われる側の、私たちの心のあり方の問題として理解されているからです。
すなわち、阿弥陀仏の救いは無条件なるが故に、私たちはその大悲にどのような
「はからい」も加えてはならないとして、その
「はからわない」というのはどのようなことかを詳細に説明しています。
けれども、もし自らの
「救い」を「無条件」
としてとらえ、その無条件とは何かを穿鑿し、はからいのない心を作り出そうとするのであれば、結局、弥陀の
「無条件の救い」をはからう心で条件化していることに他なりません。
これは
「はからわない心」で救われてゆく自分の姿を描こうとする言葉ではありません。
凡愚から
「はからい」
を捨てさることなど、所詮できないことだからです。
そこで、弥陀の
「無条件の救い」を私の側で問うのならば、問いは次のように発せられなくてはならなくなります。
「弥陀が私を摂取される時に清浄なる心でなすべき一つの条件をもし付しておられたなら」と。
そこで顕かになるのは、絶対に救われることのない自分の姿であり、このように問うことによって、初めて一つの条件も満たすことのできない不実なる自分を真に知り得ることになるのではないかと思われます。
したがって、末法の世における
「機の真実」とは、自己の不実性が限りなく明らかになることだといわなくてはなりません。