真宗講座末法時代の教と行 機の真実と無条件の救い 8月(中期)

もしかすると、このような問いを発すること自体に、奇異な思いを抱く人がいるかもしれません。

すでに指摘したように、今日の真宗者の多くは、あたかも最初から自分は第十八願の

「信」の場に置かれていると思い込んでいます。

いわば無自覚的に浄土真宗の念仏者になっているのです。

そのため、たとえ第十八願の教えを一心に聞き学んだとしても知識として理解するだけにとどまり、教えが全く自分のものとはなりません。

自己の問題として問う厳しさをなくし、ただ安易な有り難さのみの生き方に終始しています。

そこで、親鸞聖人の説かれた

邪見きょう慢悪衆生、信楽受持することはなはだもって難し。

難の中の難、これに過ぎたるはなし。

と言われる言葉さえも、これはすでに信をいただいている自分に対する教えではなく、未だ信を頂いていない自力の執心者を戒めておられる言葉だと、他人事のように理解しています。

けれども、何よりも大切なことは、私たちはその自力執心の

「邪見きょう慢悪衆生」

こそ自分だということを知ることなのです。

さらに今一つ、私たちは親鸞聖人の思想の独自性に一段と深く注意を払う必要があります。

それは、阿弥陀仏の仏教は信も行も仏より来たるという他力廻向の法にほかなりませんが、このような仏教は親鸞聖人以前においては誰一人として気付くことの出来なかった思想であり、また親鸞聖人以後においても新たに説きえてはいません。

まさしく、後にも先にも親鸞聖人ただ一人の思想です。

このことは、裏返せば親鸞聖人の思想は極めて難解だということになり、親鸞聖人の教えを承け継ごうとする者においてさえその真意を十分に理解しきれていない面があります。

なぜなら、仏教において

「行」といえば衆生が仏果に至るために修する行為を指し、その行為の助縁となるはたらきは

「行」とは解されていません。

仏教一般においては、仏から衆生にかけられる大悲は、仏の業力・増上縁と呼ばれてはいても、その大悲のはたらきそのものが衆生自身にとって

「行」だとは考えられていません。

ところが、親鸞聖人は、その阿弥陀仏の大願業力こそが、この末法濁世における唯一の自己における

「行」だと見られるのです。

これは

「末法」という世を鋭く見つめることによって、初めて明らかになった、全く新しい仏教の原理なのであって、現世における衆生の

「行道」の徹底的な否定を通して、必然的に顕かになった真理だと言えます。

その仏教の原理とは、もしこの世に、衆生が仏果に至りうる真の行道があるとすれば、それは阿弥陀仏の廻向行によってのみということですが、この仏廻向の行こそ、第十八願に誓われている

「乃至十念」の「念仏」にほかならないことを親鸞聖人は顕かにされたのです。

こうして、親鸞聖人はこの念仏行を、ことに

「大行」と名付けられます。

改めて言うまでもなく、真宗者はこの親鸞聖人の教えを忠実に承け継ごうとしています。

それ故に「如来廻向の行」に関しては、何にもましてその真実をとらえようとし、また一心にそのことを人々に説き明かそうとしています。

ところが、それにもかかわらず、念仏そのものが阿弥陀仏の廻向行だというその点を明確にするまでに至り得ていません。

それは、阿弥陀仏より廻向されているはずの念仏行を、無意識の内に自己の側に引き寄せて、衆生の行為として述べられていることがあまりにも多く見られるからです。

しかし、考えてみると、それはむしろ当然のことだというべきかもしれません。

どれほど力んで

「念仏とは如来廻向の行であり、大行だ」

と人びとに語りかけたところで、現に私の口から出ている念仏の声は、どう考えてみても私の行為によるものとしかとらえようがないからです。

そのため、必然的に念仏を

「私のもの」として扱ってしまうことになるのです。