大自然のすがたには、眼に見えて、これが変わったということもないが、人間の上にながれる十年の歳月には、驚かれるほどな推移があった。
建久二年の春は、範宴少納言がこの東塔の無動寺に入ってから、ちょうど九年目に当たる。
彼は、十九歳になった。
白衣を来て、黒い袈裟をかけて、端麗で白皙(はくせき)な青年は俗界の塵の何ものにもまだ染まっていなかった。
処女のように、きれいであった。
「なにと気高いお姿だろう」
と、その九年の間、一日も離れることなく侍(かしず)いている性善房ですら、時には、見惚れることがあった。
背は高く、肩幅もひろいほうであった。
無動寺の奥ふかく閉じ籠もっているのが多いので、色は白く、唇は丹(に)のようであった。
眉は濃く太く、おそろしく男性的である。
ことに、きっと一文字に結んでいる口もとには不壊(ふえ)の意志がひそんでいるように見えた。
ある者は、
「範宴御房のお貌(かお)は、前から見るとやさしいお方だと思うが、横からふと見ると、実に怖いお貌だ」
といった。
そういわれてから、性善房も、
「なるほど」
と気がついた。
怖いと見れば怖い。
やさしいと見れば優しい。
健康の点では、骨格も、気力も頼もしい頑健さを天質的に備えていた。
これも母系の祖父の遺伝に恵まれているのかも知れないと彼は思った。
たくましい肋骨の張った胸幅の下には、どんな大きい心臓が坐っているのかと思われるくらいだった。
その実証を、性善房は、この九年間に眼のあたりに見てきて、ひそかに、
(自分にはとてもできない)と舌を巻いて驚いているのであった。
それは、範宴の知識慾の旺(さかん)なことと、それを、満たしてゆく学究心の強さであった。
唯識論(ゆいしきろん)とか、百法問答抄とかいう難解なものすら、十二歳のころに上げてしまったし、十五歳の時には、明禅法印から、密法の秘奥(ひおう)をうけて、かつて、慈円大僧正が大戒を授けた破例を、(依怙贔屓である)と、罵った一山の大衆も、今では、口を黙して、
(やはり、彼の質は天稟(てんぴん)なのだ)と認めるようになっていた。
けれど範宴自身は、それに誇るようなふうは少しもなく、林泉院の智海に随って、天台の三大部を卒業するし、また、仁和寺(にんなじ)の喜存をたずねて、華厳(けごん)を聴き、南都の碩学たちで、彼はといわれるほどな人物には、すすんで、学問を受けた。
「お体を、おこわしにならないように――」
と性善房は、日夜の彼の精進に、口ぐせのようにいっていたが、それは杞憂(きゆう)にすぎなかった。
やがて範宴の体質がそんなことでこわれるような脆弱(ぜいじゃく)なものでないことがわかると、
「まったく、異常なお方だ」
と心から頭が下がってきて、もう、そんな通常人にいうようないたわりはいえなくなってきたのであった。
そして、同じ侍(かしず)いて仕えているにしても、九年前と今日とは、まったく違った畏敬の心をもって、
(師の御房)と呼び、そして範宴から垂示(すいじ)を受ける一弟子となりきっていた。