では、なぜ
「浄土の真宗は証道今盛り」と言えるのでしょうか。
それは、阿弥陀仏の大悲によって教行証のすべてが、ここに廻向されているからに他なりません。
それ故に、釈尊の教えによって、この弥陀の大法を頂戴する者は、末法の現世においても行を成就し証果に至ることができます。
浄土真宗が
「証道今盛りなり」といわれるのもまた、当然のことだと言えます。
ここにおいて、聖道の諸教と浄土の真宗、すなわち釈尊の仏教と親鸞聖人が明らかにされた阿弥陀仏の仏教の証果に至る構造は、次のように対比することができます。
聖道の諸教・行を信じ行じて証に至る
浄土の真宗・教に説く行を信じ証に至る
聖道の諸教(浄土の第十九・二十願の教をも含む)では、衆生は、釈尊の教えを一心に信じ、教えのごとく行じて仏果に至るのですから、教えに対して行者は、一毛の疑惑心を持つことも許されません。
ひたすら教えに信順し、行道に専念することによってのみ証果が得られるのです。
そこで信が初入で最も
「易」、証が究極で最も
「難」、行がその難に至る道程であるため
「難行」というのです。
しかもこの「行」が、仏果を得る因となるのですから、衆生にとって、行が最も重視されることになります。
では、浄土真宗の教えはどうでしょうか。
阿弥陀仏の仏教は、仏の大行が無条件で一切の凡愚を救うという法です。
釈尊は、自身の出世本懐の教えとしてこの法を説かれました。
そうすると、衆生はこの釈尊によって明らかにされた、阿弥陀仏の大行をただ信じるのもで、証果は自然に開かれます。
こうして、阿弥陀仏の大行が私を仏果に至らしめるのですから、行と証は衆生にとっては
「易」の至極です。
これに対して信は、この不可思議なる法を、愚かな凡夫が果たして真実、信じることが出来るかどうかが問われている心だということになります。
ここで、両者、聖道の仏教と浄土の真宗の行と信の関係を見ると、前者では信から行へと、信行の次第を、後者は行から信へと行信の次第を呈しています。
これは、単に順序が逆だという問題ではなく、仏果に至る法の構造が根本的に異なっていることを意味しています。
聖道の仏教においては、仏の教えを行者が信じ行じて証に至るのですから、教のみが仏から衆生へという仏のはたらきの中にあります。
これに対して信と行と証は、行者自身が仏になろうとする発菩提心と行業によって開かれる証果ですから、衆生自体のはたらきを示します。
一方、浄土の真宗においては、教と行と証が阿弥陀仏が、衆生を仏果に至らしめる法のはたらきとしてあります。
その法を衆生が領受する場が信です。
したがって
「信」のみが衆生が法とかかわることのできる唯一の場であると同時に、衆生のただ一つの主体的なはたらきになります。
この故に、信が衆生にとって最も重要な要因、仏果に至る真因となるのです。
衆生は、信によって法と出遇うのですが、それがほんの一瞬、あるいはわずか一点の事柄であっても、その接点の真の覚知は、凡愚自体の問題であるが故に、この信がまさに
「難中の難」なのです。
親鸞聖人が
「無上妙果の成じ難きにあらず、真実の信楽実に獲ること難し」
といわれるのは、まさしくこの点を述べられたものであると窺えます。
むすび
真宗者にとって
「念仏」とは何でしょうか。
これまで述べてきた法の構造が明かになるならば、自然とここに四つの場が開かれることになります。
第一は、未だ真の意味で浄土真宗の法門に出遇っていない者にとっての念仏です。
第十九・二十願の念仏がそれで、この者の念仏は聖道仏教の行と同一の場におかれています。
したがって末法にあっては、この行は直接的には仏果への行業となりえません。
けれども、その念仏の功徳は、やがてこの者を浄土真宗の法門へと導くことになります。
親鸞聖人にとっては、法然聖人に出遇われる以前の念仏、三願転入の構造がそれで、念仏が行者をして真に苦悩せしめ、阿弥陀仏の本願に出遇わしめるのです。
第二は、阿弥陀仏の本願としての念仏です。
親鸞聖人は法然聖人によってこの大法を信知せしめられました。
一声の念仏を通して、一切の衆生を救う阿弥陀仏の大行がこれで、親鸞聖人にとっての念仏義は、主としてこの阿弥陀仏の救いの構造として述べられています。
第三は、この阿弥陀仏の大行を、衆生が自身の主体を通して信知する場です。
第二が法の場の念仏であるとすれば、第三は機の場の念仏です。
獲信の構造としての念仏であり、親鸞聖人においては
「信の一念」の時がこの念仏です。
第四は、獲信者が念仏もの行者として生きる念仏の場です。
ここでは、真の念仏者の実践が問われることになります。
したがって、四つの場を見ることなく親鸞聖人の念仏を論じることは、必然的に論そのものが矛盾をきたすことになります。
したがって、親鸞聖人の念仏義について考える場合、その文章がどの場で述べられているのかということを明確に理解することが何よりも大切になります。
なお、これまで述べてきた
「末法の教行としての念仏」
は、第二の念仏論であることは言うまでもありません。