はじめに
仏教の社会性が問われるようになり、浄土真宗の教えを実践的に求めようとする人々の中から、従来の浄土教は往相面のみが強調されてきたとして、そのことを批判的にとらえ、浄土教徒も積極的に利他行をなさねばならないと、この世における還相の菩薩道の実践が提起されるということがありました。
これは、自らが浄土への往生を願うという往相面を
「自利」としてとらえ、浄土教徒が自身の後生の一大事のみに目を向けているかのようなあり方は、仏道における
「利他」行ともいうべき社会的実践面が非常に希薄な印象を拭えないとして、もっと現実の社会に目を向け、社会におけるいろいろな問題に対して積極的に取り組んでいかなくてはならないとする考え方に基づくものです。
そこで、この現代社会に見られるさまざまな歪みや、人々が直面している危機的側面を救うべき宗教活動を
「利他」としてとらえ、それを自らがなすべき還相の菩薩道の実践として見ようとするあり方が提唱された訳です。
これは、伝統的宗学において、還相廻向は来生に実現し行ぜられるものと理解されてきたことに対して、還相廻向を現生のこととしてとらえ、さらに還相の行を行ずる主体を衆生に、端的には
「私」
に見ようとするあり方で、この論は、自利的な往相面のみが強調され、非常に静的になっている現代の真宗信仰に対する批判として生まれたものだと思われます。
では、往相と還相に関する伝統的解釈とは、どのような思想なのでしょうか。
ここは、その代表的な見解として香月院深励師の説を見てみることにします。
教巻より証巻の終り迄が、此の二種の廻向をあかすなり。
今略してその相を弁ぜば、廻向と云うは如来の方から施与し給ふが廻向なり。
(中略)廻は廻転の義で、あちらにあるを、こちらに転ずること。
向は趣向の義で、あちらからこちらに趣きむかはせること。
如来の功徳を、これも衆生の為め、此れも衆生の為めと、衆生にめぐらし向はしむるが廻向なり。
また往相廻向と云うは、衆生の方にあることなり。
往相の往は、往生浄土のことで、娑婆に於いて信心をえて、浄土に往生して涅槃をさとる迄が往相なり。
また還相の還は、還来穢国の義なり。
浄土から穢土にたちかへり、あらゆる衆生を済度するなり。
(中略)相は相状の義で、この方(真宗大谷派のこと)の先輩はつねに
「スガタ」
のことと弁ず。
往生するすがた、娑婆へ戻るすがたと云うことなり。
(中略)その還相も往相も、凡夫自力の企ては少しもなく、みな如来の方からの廻向ぢゃといふことで、往相廻向還相廻向と云う。
然れば、往還相二相は衆生に約して名を得るなり。
廻向の言は弥陀に約して、衆生が娑婆より浄土に往生する往相も、浄土から立ち還りて、衆生を済度する還相も、皆な弥陀の他力廻向なり。
それを二種の廻向と云ふ。
この深励師の説は
『如来の回向によって衆生が穢土から浄土に往生する「往相の生」を得、またやがてその往相の彼方に、浄土から穢土に還来して衆生を済度する「還相の生」を得る』
と理解することが出来ます。
このような見方が、親鸞聖人の信から躍動感を消してしまっているという批判がなされたのですが、では親鸞聖人ご自身は、どのように述べておられるのでしょうか。
『高僧和讃』では曇鸞大師の教えを次のように讃えておられます。
弥陀の廻向成就して往相還相ふたつなり
これらの廻向によりてこそ心行ともにえしむなれ
往相の廻向ととくことは弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば生死すなはち涅槃なり
還相の廻向ととくことは利他教化の果をえしめ
すなはち諸有に廻入して普賢の徳を修するなり