ここは、親鸞聖人の廻向義、阿弥陀仏が衆生を済度するために、自身の功徳の一切をその衆生に廻施するという意味をもそのまま全く動かさないで、この文の廻向の語に重ねることが重要なのではないかと思われます。
そうすると
「二種の廻向」は、どこまでも阿弥陀仏の廻向が述べられていることになります。
逆に言えば、ここは衆生(私)にとっての廻向が語られているのでも、また私の往還の相が説かれているのでもありません。
衆生の主体性が問われているのではなく、阿弥陀仏自体の行為性が問題となっているのです。
したがって、ここでは
「せしめられる」という廻向義は成立しません。
往還の問題もまたその通りであって、往相・還相の廻向そのものが、阿弥陀仏の側より語られなくてはならないのです。
そうすると、往相とは
「衆生が浄土に往生する自利の相状」
ということではなく、
「阿弥陀仏が衆生を浄土に往生せしめる相(はたらき)」
の意味になります。
ここにおいて、親鸞聖人の廻向義の特殊性は、ほぼ消えてしまうことになります。
親鸞聖人は何も
「廻向」に特別な意味を持たせようとされたのではありません。
むしろ仏教の廻向義の本来のすがたをどこまでも求められたのだと言えます。
そして、その究極において仏教における廻向義の一切は、ただ阿弥陀仏の廻向を通してのみ成就されるのだということが明らかになったのです。
このことから
「往相の廻向について真実の教行信証あり」
という文は、次のように理解することができます。
「教」とは、衆生を往生せしめるために、諸仏をして説かしめる阿弥陀仏の本願の教え
「行」とは、衆生を摂取し往生せしめる阿弥陀仏の大行、すなわち正定の業としての称名(名号)
「信」とは、衆生往生の正定の因である大信心
「証」とは、その業因によって得さしめられる衆生の証果
では、なぜ阿弥陀仏はこのような廻向をされるのでしょうか。
穢土の仏教においては、像末法滅の相を呈します。
そこには、真実の行も証も存在しません。
そこで阿弥陀仏は、その衆生の教行信証のすべてを仏自身において成就し、その衆生のすべてを浄土に往生させるために、それを廻向されるのです。
だからこそ、親鸞聖人にとって、阿弥陀仏の仏教が末法におけるただ一つの真実の仏教
「浄土真宗」なのでした。
ところで『教行信証』「総序」に示されている
「真宗の教行証を敬信して」とは、弥陀廻向の法を親鸞聖人ご自身が頂かれた姿ですが、この場合、法としての大行・大信は、ともに
「行」に含まれていると見ることが出来ます。
真宗の
「教行証」の法が、衆生を救済するために弥陀より廻向されて来ます。
衆生はそれを信知するのですが、ここに法と機(衆生)の接点が見られます。
この一瞬を機の側より問われる時、そこにはじめて
「成就文」の「至心に廻向せしめたまへり」
という場が成り立ちます。
つまり「獲信」という機の問題においてのみ
「せしめられる」という親鸞聖人独自の廻向義が見られるのであって、法としての廻向義は、仏教本来の意を微動だにもさせておられないと言えます。
ここにおいて
「後序」で語られた
「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛りなり」
の意が鮮明に浮かび上がってくることになります。
釈尊の仏教は、行も証もないという
「末法」の相を呈します。
そして、現世は、その末法の時が到来してすでに久しくなります。
にもかかわらず、その釈尊の仏教の教えのごとく道を求めようとする
「聖道の諸教」が、
「行証久しく廃れ」ていると言われるのは当然のことと言えます。