なお仔細に事情を訊くと、弟の朝麿は、梢と逃げてくる旅の途中風邪をこじらせて、食物もすすまぬようになり、この附近の木賃旅籠に寝こんでしまって、持ち合わせの小遣いは失くなるし、途方にくれているところだというのである。
「では……弟はわしに会いたいというと、おもとを使いによこしたわけか」
「ええ……」
梢は、打ち悄(しお)れたまま、
「いっそ、二人して死んでしまおうかと、何度も、刃物を手に取ってみましたが、やはり、死ぬこともできません」
と、肩をふるわせて泣き入るのであった。
無考えな若い男女(ふたり)も、途方に暮れたことであろうが、より以上に困惑したので範宴であった。
まず第一に思いやられるのは、髪をおろして、せっかく、老後の安住を得た養父の気持だった。
次には、生来、腺病質(せんびょうしつ)でかぼそい体の弟が、旅先で、金もなく、落着くあてもなく、これも定めて悶えているだろう容子(ようす)が眼に見える心地がする。
病のほども案じられる。
「どこですか、その旅籠は」
「ここから近い、小泉の宿端れでございます。
経本を商(ひさ)ぐ家の隣で、軒端に、きちんと板札が、打ってあります」
「見らるる通り、わしは今、朝のお勤めをしている途中、これから勤行の座にすわり、寮の日課をすまさねば、自分の体にはなれぬのじゃ。……それを了(お)えてから訪ねてゆくほどに、おもとは、弟の看護(みとり)をして下さるように」
「では、来て下さいますか」
梢は、ほっとした顔いろでいった。
兄は、きっと怒るであろうと弟からいわれていたものとみえ、範宴の返辞を聞くと、迷路に一つの灯を見たように彼女はよろこんだ。
「参ります。何でまた、捨てておかれよう。きっと行くほどに、弟にも、心をつよく持てといってください」
「はい。……それだけでも、きっと、元気がつくでしょう」
「では……」
と範宴は、学寮の忙しさが思いだされて、急に、水桶を担いだした。
すべらぬように藁(わら)で縛ってある足の裏は、冷たいとも痛いとも感覚は失せているが、血がにじみ出していた。
真っ黒な天井の下に、三つの大きな土(ど)泥(べ)竃(つつい)が並んでいた。
その炊事場には、薪を割る者だの、襷(たすき)がけで野菜を刻んでいるものだのが朝の一刻(いっとき)を、法師に似げない荒っぽい言葉や唄をうたい交わして働いていた。
範宴が、水桶を担って入ってきたのを見ると、泥(へっ)竃(つい)のまえに、金(かな)火箸(ひばし)を持っていた学頭が、
「範宴っ、何をしとった?」
と、焼けた金火箸を下げて、彼の方へ歩いてきた。