親鸞・去来篇 10月(10)

なお仔細に事情を訊くと、弟の朝麿は、梢と逃げてくる旅の途中風邪をこじらせて、食物もすすまぬようになり、この附近の木賃旅籠に寝こんでしまって、持ち合わせの小遣いは失くなるし、途方にくれているところだというのである。

「では……弟はわしに会いたいというと、おもとを使いによこしたわけか」

「ええ……」

梢は、打ち悄(しお)れたまま、

「いっそ、二人して死んでしまおうかと、何度も、刃物を手に取ってみましたが、やはり、死ぬこともできません」

と、肩をふるわせて泣き入るのであった。

無考えな若い男女(ふたり)も、途方に暮れたことであろうが、より以上に困惑したので範宴であった。

まず第一に思いやられるのは、髪をおろして、せっかく、老後の安住を得た養父の気持だった。

次には、生来、腺病質(せんびょうしつ)でかぼそい体の弟が、旅先で、金もなく、落着くあてもなく、これも定めて悶えているだろう容子(ようす)が眼に見える心地がする。

病のほども案じられる。

「どこですか、その旅籠は」

「ここから近い、小泉の宿端れでございます。

経本を商(ひさ)ぐ家の隣で、軒端に、きちんと板札が、打ってあります」

「見らるる通り、わしは今、朝のお勤めをしている途中、これから勤行の座にすわり、寮の日課をすまさねば、自分の体にはなれぬのじゃ。……それを了(お)えてから訪ねてゆくほどに、おもとは、弟の看護(みとり)をして下さるように」

「では、来て下さいますか」

梢は、ほっとした顔いろでいった。

兄は、きっと怒るであろうと弟からいわれていたものとみえ、範宴の返辞を聞くと、迷路に一つの灯を見たように彼女はよろこんだ。

「参ります。何でまた、捨てておかれよう。きっと行くほどに、弟にも、心をつよく持てといってください」

「はい。……それだけでも、きっと、元気がつくでしょう」

「では……」

と範宴は、学寮の忙しさが思いだされて、急に、水桶を担いだした。

すべらぬように藁(わら)で縛ってある足の裏は、冷たいとも痛いとも感覚は失せているが、血がにじみ出していた。

真っ黒な天井の下に、三つの大きな土(ど)泥(べ)竃(つつい)が並んでいた。

その炊事場には、薪を割る者だの、襷(たすき)がけで野菜を刻んでいるものだのが朝の一刻(いっとき)を、法師に似げない荒っぽい言葉や唄をうたい交わして働いていた。

範宴が、水桶を担って入ってきたのを見ると、泥(へっ)竃(つい)のまえに、金(かな)火箸(ひばし)を持っていた学頭が、

「範宴っ、何をしとった?」

と、焼けた金火箸を下げて、彼の方へ歩いてきた。