「はい、私はおたずねの範宴ですが……」
答えながら、彼は、自分の前に立った娘に対して、どこかで見たような記憶をよび起こしたが、どこでとも、思い当らなかった。
(ああよかった)というように娘は安堵(あんど)の色を見せ、同時にすこし羞恥(はじら)いもしている容子(ようす)。
年ごろは十七、八であろうか。
しかし年よりはやや早熟(ませ)た眸と、純な処女(おとめ)とも受けとれない肌や髪のにおいを持っている。
それだけに、男には蠱惑(こわく)で、面ざしだの姿だの、総体からみて、美人ということには、誰に見せても抗議はあるまいと思われるほどである。
「あの……実は……私は京都の粟田口の者でございますが」
「はあ」
範宴は、水桶を下ろして、行きずりの旅の娘が、どうして、自分の名を知っているのかと、不審な顔をしていた。
「一昨年(おととし)の秋でございましたか、鍛冶ケ池のそばをお通りになった時、よそながら、お姿を見ておりました」
「ははあ……私をご存じですか」
「後で、あれが、肉親のお兄上様だと、朝麿様からうかがいましたので」
「え、弟から?」
「私は、あの時、朝麿様と一緒にいた梢という者でございますの。……父は、粟田口の宗次といって、あの近くで、刀鍛冶を生業(なりわい)にしています」
「……そうですか」
と、驚きの眼をみはりながら、範宴は、なにか弟の身にかかわることで、安からぬ予感がしきりと胸にさわいでくるのだった。
「梢どのと仰っしゃるか。――どこかで見たようなと思ったが」
「私も、一昨日から、法隆寺のまわりを歩いて、幾人(いくたり)も、同じお年ごろの学僧様が多いので、お探しするのに困りました。……というて、寺内へおたずねするのも悪いと思うて」
「なんぞ、この範宴に、御用があっておいでなされたのか」
「え……」
梢は、足もとへ眼を落して、河原の冬草を、足の先でまさぐりながら、
「ご相談があるんですの」
「私に」
「あの……実は……」
うす紅い血のいろが、耳の根から頬へのぼって、梢は、もじもじしていた。
「弟御さまと、私のことで」
範宴は、どきっと、心臓に小石でも打(ぶ)つけられたような動悸をうけた。
「弟が、どうかしましたか」
「あの……みんな私が悪いんでございます……」
範宴の足もとへ、泣きくずれて、梢は次のようなことを、断(き)れ断れに訴えた。
朝麿と梢は、ちょうど、同じ年の今年が十九であるが、二年ほど前から、恋に墜(お)ちて、ゆく末を語らっていたが、それが、世間にも知れ、男女(ふたり)の家庭にも知れ、ついにきびしい監視の下に隔てられてしまったので、若い二人は、謀(しめ)しあわせて、無断で家を脱け出してきたというのである。
「あの弟が」
と範宴は、霜を踏んだまま、凍ったように、唇の色を失って、梢のいうのを聞いていた。