「……耳のせいかな?」
と、覚明がつぶやくと、
「なんじゃ」
性善坊も立ちどまった。
するとこんどは明らかに、田か、野か、ひろい夜霞の中で笛のさけぶような女の声が流れて行った。
「あっ……」
車廂(くるまびさし)へ、簾(れん)をあげて、範宴も遠くを見ていた。
何ものかをその眼が見とどけたらしく、
「不愍な……」といった。
そして、
「あれはまた、里の女が、悪い者にかどわかされてゆく泣き声ではないか。鎌倉殿の世となって、世は定まったようにうわべは見ゆるが、民治はすこしも行きわたらず、依然として、悪者は跳梁(ちょうりょう)し、善民は虐(しいた)げられている」
眉をひそめて嘆かわしげにいったが、とたんに、覚明は、手綱を、牛の背へ抛(ほう)って、
「救うてとらせましょう」
すぐ走って行った。
性善坊は、師のそばを離れることは不安だし、覚明ひとりではどうあろうかと、しばらく、佇(たたず)んだまま見ていたが、おぼろな中に消えた友のすがたは、容易に帰ってこなかった。
「人を救うもよいが、覚明は、勇に逸(はや)るのみで、一人を救うがため千人をも殺しかねない男じゃ、性善坊、見て参れ」
範宴も、心もとなく思われたか、車のうちからそういった。
「では、しばらくお一人で」
いい捨てると、彼の体も、弦(つる)から放たれたように迅かった。
堤(どて)のすそを流れる小川を跳んで、まだ冬草の足もとに絡(から)みつく野を、いっさんに走ってゆく。
行くほどに、やがて、罵(ののし)る声だの、得物(えもの)を打ちあう音だのが、明らかに聞きとれてきて、雲母(きらら)月夜の白い闇を、身を低めて透(す)かしてみると、覚明法師ただ一人に、およそ、十四、五名の魔形(まぎょう)の者が諸声(もろごえ)あわせて挑(いど)みかかっているのだった。
「助勢に来たぞよ、覚明」
近づきつつ、性善坊は、身を挺(てい)して、悪人たちの中へ割り入ろうとしたが、その時、突(とつ)として横あいに傍観していた一人の男が、野中の一本杉の根本からついと彼の前へ寄ってきて両手をひろげ、彼をして、覚明の助勢をすることを不能にさせてしまった。
「おのれも、賊の組か」
前に立った人影の真っ向へ拳(こぶし)をかためて一撃をふり下ろすと、相手は、飄(ひょう)として、身をかわしながら、
「てめえは、性善坊だな」
「やや」
「天城(あまぎの)四郎を忘れはしまい」
「オオ、何で忘れよう、おのれとあっては、なおゆるせぬ」
「邪魔をすると、気の毒だが、命がないぞよ、常とちがって、今夜の仕事は、大事な玉だ」
見れば、一本杉の根もとには、彼らがここまでかついで走ってきた姫の体が、要心ぶかく縛りつけてある。
その姫の顔には、声を出さないように、猿ぐつわがかませてある。