琵琶(びわ)の海老(えび)尾(お)に手をかけて、四つの絃(いと)の捻(ねじ)をしきりと合せていた峰(みね)阿(あ)弥(み)は、やがて、調べの音が心にかなうとやや顔を斜めに上げて、客か主人かが所望の曲をいい出すのを待っているような容子(ようす)であった。
そこで、僧正が問を入れた。
「法師」
「はい」
「そちの琵琶は唐作(からづく)りのように見ゆるが、やはり舶載物(はくさいもの)か」
「いいえ、古くはございますが、日本でできたものでございましょう。銘(めい)に、嵯峨(さが)とありますゆえに。それに、唐琵琶は多く胴を花梨(かりん)でつくりますが、これは、日本の黄桑(こうそう)でございます」
「日本に琵琶の渡ってきたのは、いつのころからであろう」
「さよう――」
峰阿弥は、見えない眼をしばたたいて、
「よう、存じませぬが、推古(すいこ)朝(ちょう)の時代、小野(おのの)妹子(いもこ)が隋(ずい)の国から持ってきたと申す説、また、仁(にん)明帝(みょうてい)の御世に遣唐使藤原(ふじわらの)貞(さだ)敏(とし)が学んで帰朝したのが始まりであると申す説と、いろいろにいわれておりまするが、いずれにしても天平(てんぴょう)のころからあったということは光明皇后から東大寺へ御寄進なされました御物(ぎょぶつ)を拝見いたしましても頷(うなず)けることでございましょう」
「本朝で、琵琶の上手といわれる人は」
「ただ今申しました藤原貞敏卿(きょう)や宇多源氏の敦(あつ)実(ざね)親王、また親王の雑色(ぞうしき)で名だかい蝉丸(せみまる)」
「当代では」
「畏れ多いおうわさでございますが、高倉天皇の第四の王子、上皇とおなり遊ばしてからは後鳥羽院と申し上げているあの御方(おんかた)ほどな達人は先ずあるまいと下々(しもじも)の評でございまする」
禅閤兼(かね)実(ざね)はうなずいて、
「いかにも」と相槌(あいづち)をうった。
峰阿弥は問わず語りに、
「私などが存じあげた沙汰ではございませんが、世評によると、後鳥羽院と仰せられる御方は、よほど秀才だと申すことです。新古今和歌集の撰(せん)を御裁定あそばしたり、故実の講究にもおくわしく、武道に長じ、騎馬と蹴鞠(けまり)はことのほか優(すぐ)れておいで遊ばすそうで、わけても下々の驚いているのは、画なども、ふつうの画工などは遠く及ばないものだと申すことでございます。
――その後鳥羽院はまた、御気性のすぐれておいで遊ばすだけに、今は亡き源義経(よしつね)公とは、たいそうお心が合って、勤王の志のあつかった義経公を、いまだに時折、ご側近の方々へ嘆きをお洩らしなさるそうでございます。
そして、頼朝公の亡き後(あと)の北条一族の専横(せんおう)を御覧(ごろう)ぜられ、武家幕府の奢(おご)りを憎み給い、やがては鎌倉の末路も久しからずしてこうぞよという諷刺(ふうし)をふくめて、前司(ぜんじ)行(ゆき)長(なが)に命じて著(つ)作(く)らせましたのが、このごろ、しきりと歌われる平家の曲でございます。
上皇はそれを、性仏(せいふつ)という盲人に作曲させ、民間へ流行(はや)らせることまでお考えになりました。
その御(み)心(こころ)は忠孝な道の節義を教え、奢(おご)る者の末路を誡(いまし)められましたものでございまして、私の語るところも、実はその性仏から教えをうけたものでございますゆえ、まだ糸にも歌にも馴れぬ節が多いので、さだめし、お聞きづらかろうと思うのでございます」
※「海老尾(えびお)」=琵琶・三味線の棹(さお)の上端のエビの尾のように反(そ)った部分。名所(などころ)ともいう。