意外そうな顔をする人々の迂遠さを提(だい)婆(ば)はあわれむように薄く笑って、
「眼を、君たちは、持っているのかいないのか。お互いに人間だ、叡山(えいざん)だって、人間の住んでいる社会だ。してみれば、若いくせに、聖(ひじり)めかしている奴が、実はいちばん食わせ者だということが分るはずだ。自体、範宴という人物を、俺は元からそう高く買っていない――」
人々は、提婆の鋭い観察に黙って聞き入っていた。
提婆は自分の才舌に酔っているように喋(しゃ)舌(べ)りつづけた。
「考えてみろ。まだ彼奴(きゃつ)は今年でやっと二十九歳の青(あお)沙(しゃ)弥(み)じゃないか。その青二才で一院の門跡となり、少僧都となり、やれ秀才の駿(しゅん)馬(め)の、はなはだしきは菩(ぼ)薩(さつ)の再来だとかいって、ちやほやいう奴があるが、それが皆、あの男のためには毒になっているのだ。世間は少し、彼を買いかぶり過ぎているし、君たちもまた、それに付随して認識を誤っているんだ」
「提婆、貴様はまた、何を証拠に、そんな大胆なことがいい断(き)れる?」
「大乗院の出入りを監視しているの俺だけだろう。なぜ俺が、彼の行動に監視の眼を向けているかといえば、それにも理由がある。……たしか去年の初夏のころだった。俺は範宴の隠し女をこの眼で見たのだ」
「ふウム……どこで」
「麓の赤山明神の前で」
「…………」
提婆のことばには曖昧(あいまい)らしさがなかった。
信じることをいっている眼であった。
人々も彼の態度にその真剣さを見てから狐疑(こぎ)を離れて熱心な耳を傾けだした。
「……範宴は誰も見ていまいと思っているだろうが、それが仏罰だ。ちょうど俺はその前の晩、学寮の連中と謀(たく)らんで、例の坂本の町へ飲みに降りたのだ。つい飲み過ぎて眼をさますと、もう夜が白みかけている、朝の勤行(ごんぎょう)におくれては露顕ものだと、大(おお)慌(あわ)てに飛び出して、今いった赤山明神の近くまで来ると、どうだおい、美しい女が、範宴の袖にすがって泣いているのだ、範宴の当惑そうな顔ったらなかった」
「八(や)瀬(せ)の遊(うかれ)女(め)か、それとも京の白(しら)拍(びょう)子(し)か」
「ちがう、そんな女とは断然ちがう。どう見ても貴族の娘だ、?(ろう)たけた五(いつ)つ衣(ぎぬ)の裾(すそ)を端折(はしょ)って、侍女(こしもと)もついていた。二人して泣いてなにかせがんでいるらしい。俺は、樹蔭にかくれて、罪なことだが、そっと見ていた。男女(ふたり)の話こそ聞えなかったが、それだけの事実でも、範宴がいかに巧みな欺(ぎ)瞞者(まんしゃ)であるかは分かるじゃないか。あいつに騙(だま)されてはいかん」
「そうか。さすれば、遷(せん)化(げ)するとか、京の六角堂へ参籠するため、夜ごとに通っているなどということも」
「嘘の皮さ。通っているとすれば、それは今いった女の所へだろう」
「なんのこった」
「この社会に生きた聖(ひじり)などはない」
「範宴でさえそうとなれば、吾々が、坂本へ忍んで、女や酒を求めるのは、まだまだ罪の軽いほうだな」
「なんだか、社会がばからしくなってきた。この叡山までが嘘でつつまれていると思うと――」
「今ごろそんなことに気がついたのか。どれ、行こうぜ……」
「晩にはまた、坂本へ抜け出して、鬱憤(うっぷん)を晴らせ」
薪(まき)を担(かつ)いで、人々は立ち上がった。
いつもの薪よりは重い気がするのだった。