小説・親鸞 2014年8月1日

峰づたいに、十町ほど歩いてゆくと、薪を担いでいるその群れへ、谷の方から呼ぶ声があった。

提(だい)婆(ば)が、耳にとめて、

「待て待て、誰かが呼んでいるぞ」

若い旅僧の姿が下の方に見えた。

笠に手をかけながらその若い僧は喘(あえ)いで上(のぼ)ってきた。

「もしっ、お山の衆」

「おう、なんだ」

「おうかがいいたしますが、大乗院はまだ峰のほうでしょうか」

「大乗院なら横(よ)川(かわ)の飯(いい)室谷(むろだに)だ。この渓流にそうて、もっと下る、そして対(むこ)う岸へ渡る。こんな方へ来ては来過ぎているのだ」

若僧はそう教えられて深い渓谷(けいこく)の道をかなしそうに振向いた。

雪解(ど)けの赤い濁流が、樹々の間に奔涛(ほんとう)をあげて鳴っていた。

「ありがとうございました」

やむなく若僧は岩にすがってまた谷の方へ降りて行くのである。

綿のように疲れているらしいその足どりを見送って、提婆は、

「あぶないぞッ……」

と注意していた。

まったくこの谷に馴れない者には危険な瀬や崖ばかりであった。

対岸へ越えるにしても、橋もなし、岩伝いに行く頼りもない。

若僧は、怖ろしい激流の形相(ぎょうそう)をながめたまま、嘆息(ためいき)をついていた。

そして、休んでは下流(しも)へ辿(たど)ってゆく。

雪で折れた朽ち木に道を塞(ふさ)がれ、そこでも、茫然と、気がくじけてしまう。

心細さはそればかりではなかった。

沢の樹々の間はもうほのぐらく暮色が迫っている。

そして、四(し)明(めい)の山ふところから飛んでくる氷った雪か、また灰色の雲がこぼしてゆく霰(あられ)か、白いものが、小紋のように、一(ひと)しきり音をさせて沢へ落ちてきた。

「寒い」若僧は意気地なく木の葉の蔭へ兎(うさぎ)のように丸まっていた。

笠の下に竦(すく)んでいる眼は、この山の荒法師などとちがって気の小さい善良な眸をしていた。

それに、色の白い皮膚や、腺病質な弱々しい骨ぐみからして、こういう旅をする雲水の資格はない若者なのである。

「会いたい。ここで凍(こご)え死(じ)にたくない。死んでも兄に会わなければ……」

彼は、つぶやいて、凍えた両手を息で暖めた。

必死になって身を起した、そして、沢の湿地を歩みだしたが、腐った落葉に足を辷(すべ)らせて、渓流の縁(ふち)まで辷(すべ)り落ちた。

「………」

腰でも打ったのか、痛そうな眉をしかめていた。

笠はもう、濁流に奪われて下流(しも)へながされていた。

いつまでも起き上がり得ないのである。

その肩へ、その顔へ、痛い痛い霰(あられ)は打つように降っている。

その高貴性のある上品な面(おも)ざしは、どこか、範宴に似ていた。

似ているはず――範宴の弟、いまは青蓮院にいる尋(じん)有(ゆう)なのであった。