小説・親鸞 手長猿 2014年8月4日

むささびでも逃げるように、木の葉を騒(ざわ)めかせて崖を辷(すべ)ってきた者がある。

灌木の枝と枝とを掻き分けて、ひょいと首を出したのを見ると、それは四郎の手下の蜘蛛(くも)太(た)であった。

もうほの暗い谷間をのぞいて、

「だめだ、ここも」

と、舌打ちした。

断崖の上にはまだ大勢の人声が残っていた。

降りやんだ霰(あられ)の空は星になって青く冴え返っている。

そのかわりに刃(は)ものを渡るような風が出て、断崖の際(きわ)にうごいている黒々とした一群の影を吹きなぐっていた。

「蜘蛛っ」とその群れが上から呼ぶと、

「おウい……」彼は首を仰向けて呶鳴った。

「降りてきたって駄目だ。ここの淵(ふち)も、越えられそうな道はねえぞっ」

蜘蛛の足もとへ、ざらざらと土が鳴って崩れてきた。

彼が止めているにもかかわらず、上の者どもは藤(ふじ)蔓(づる)にすがったり、根笹を頼りにして道もない傾斜を手長猿のように繋(つな)がって降りてくる。

そして、一応渓流のあたりを俯瞰(みお)ろしてから、

「こう、雪解けで水嵩(みずかさ)が増していちゃあ、どこまで行っても、やすやす、越えられる瀬はあるものか。この辺は、川幅のせまいほうだ。なんとかして渡ってしまえ」

「そうだとも、まさか、俺たちが、溺れもしまい」

蜘蛛が、先をあるいていて、

「あぶないっ!」

と、また止めた。

「なんだ」

「この下は、洞窟(ほらあな)だ」

「ひさしを這(は)って歩け」

「松明(たいまつ)を点(とも)そうか」

「火はよせ」

天城(あまぎの)四郎だということが声がらではっきりと分る。

暗いのでおのおのの眼ばかりが光る。

手に持っている斧(おの)だの長刀(なぎなた)の刃が時々青い光を闇で放つのだった。

「松明など点(とも)して歩いてみろ、すぐ山の者が眼を瞠(みは)って、怪しむに違いねえ、どんな武家の館(やかた)でも、禁裡のうちでも、怖いと思って忍びこむ所はねえが、この叡山(えいざん)だけは気をつけないと少し怖い。なぜなれば、ここの山法師ときては、俺たち野(の)伏(ぶせり)以上に殺伐で刃ものいじりが好きときている。のみならず、一山諸房には鐘があって、すわといえば、九十九鐘の梵音(ぼんおん)が一時に急を告げて坂本口を包んでしまう。まだ峰には雪があるから四(し)明(めい)へ逃げのびるにはやっかい。八(や)瀬(せ)へ降りては追いこまれる。めッたに大きな声も出すなよ」

盗賊でも将帥(しょうすい)たる者は一歩一歩兵法に等しい細心な思慮を費やして行かなければならない。

そうして、忍びやかな自重を持つと、四郎の分別に率(ひき)いられた十四、五人の群れは、やがて断崖を下り切って、激流の白い泡が岩を噛んでいる淵(ふち)に立った。