「救われる」とは本当の居場所を見いだすこと(前期)

あなたは、『救われる』というのはどのような状況の時、そういう気持ちになると思いますか。

例えば、自分が困っている時に助けてもらったり、自分の状況が好転するような出来事があったりしたときに感じるのではないでしょうか。

私は、ある方に、『救われるってことは、居場所を与えてもらえるってことなんだよ』と言われたことがありました。

その言葉にはどんな意味があるか、自分なりにいろいろと考えてみました。

私は、保育園でも理事長という立場にあり、子どもたちの姿を日々目にしています。

2歳の子どもが夕方の涼しい時間に園庭で遊んでいると、親御さんがお迎えに来られました。

その姿をみつけた子どもは嬉しそうに、一生懸命親御さんに向かって、ゆっくりではありますが走っていきます。

すると、走るとまだまだバランスが悪いので、そういったときはたいてい途中で転んでしまいます。

転んでしまうと、ほとんどの子どもが泣き出してしまうのですが、不思議なことに、この時は即座に泣き出すのではなく、親御さんの顔をゆっくりと見てから、泣き出すことが多いのです。

そして、親御さんが子どものもとへ駆け寄り、泣いている子どもを

『大丈夫だよ、痛かったね。よしよし』

と、抱きしめると、さらに大きな声で泣き出します。

親御さんが抱きしめたときに、子どもがさらに大きな声で泣くのは、

「思いっきり泣いてもいいんだ。泣ける場所があるんだ」

ということを無意識のうちに感じているからではないかと思います。

まさしくこれがその時の子どもにとっての救いとしての場所、安心する場所なのだと感じました。

この親御さんのように、阿弥陀如来という仏さまは、私自身、私をそのままに引き受け、無条件に居場所となってくださる、居場所をお与えくださる仏さまです。

辛いときも、悲しいときも、苦しいときも、迷ったときも、そのままに引き受け南無阿弥陀仏と私の声となって働きかけ、居場所となって下さいます。

それはどんな時も、無条件で働きかけてくださっている、私たちの居場所となるものなのです。

気づかないだけで、実はもう私たちは、『救い』のまっただなかにあったのです。

それは、まるで親が子を見守り、そして包み込んでくださり、いつも案じてくださるように。

2歳の子どもも、今はまだわからないとは思いますが、きっと大きくなって、自分が親となった時に、自分の居場所となって、親の救いがあったことを感じることでしょう。

親のように、阿弥陀様はいつも私に寄り添っていて下さいます。

どんなときも、いつも私とともにあり、悲しいときや辛いときに涙していても、ともに悲しみをわかちあってくださる方がいることは、泣いていたとしても、ありがたく、幸せなことなのではないでしょうか。

そんな中で今日もまた、いただいたこの命を精一杯、救いとして、居場所としてあるお念仏とともに、生きてまいりたいと思います。

南無阿弥陀仏。