私たちの心の在り方は、「所求(しょぐ)」と「情願(じょうがん)」という二重底になっているといわれます。
「所求」というのは、私たちの日常のいろいろな欲望のことです。
あれが欲しい、これが欲しい、あれもしたい、これもしたい、私たちは日々そのような思いを抱えながら生きています。
そして、それらの思いがかなった時に、喜びや幸せを感じたりしています。
では、もし思い通りに欲しい物が手に入ったり、したいことが全部できたとしたらどうでしょうか。
きっと、喜びに満ちあふれた幸せな毎日が続くような気がします。
仏教では「所求」が全て満たされた世界を天上界と教えています。
その一番上の層を成しているのが「他化自在天(たけじざいてん)」ですが、ここでは「人間の望みを叶えたり快楽を与えて、それを自在に自分の快楽とする事ができる」と説かれています。
簡単に言うと「他化自在天」というのは「他人の苦労の上で、思い通りに楽しんでいる世界」のことです。
実は、私たち人間世界でも、地位が上がり権力が備わると、この他化自在天を体験できます。
具体的には本来自分がすべきことを周りの人が何でもしてくれるようになりますし、苦労しなくてもお付きの人が全て取り仕切ってくれたりします。
つまり、「他化自在天」というのは、自分では何もしなくても、周りが全て世話をしてくれる、そういう世界なのです。
このように天上界は、自分の「所求」が全て満たされた、本当の満足の世界であるはずなのですが、結局のところは長続きがしません。
その満足は、やがて必ず衰えてしまうからです。
これを仏教では「天人の五衰」と教えています。
天上界ではいろいろな喜びを身に受けるのですが、その満足や喜びというものは必ず衰えてしまうのです。
この五衰の第一は「頭上華萎(ずじょうけい)」です。
頭上の華というのは、天人の象徴で、天人としての誇りや喜びをかたどっているものなのですが、それが萎れてくるのです。
これは、天人としての在り方に感動がなくなる、薄れてくるということを意味しています。
私たちは、あれがしたいとか、これが欲しいとか思い、それが手に入った時は喜びや感動にひたるのですが、しばらくすると、それがあることが当たり前になってきます。
いつまでも手に入れた時の喜びや感動が続けば良いのですが、必ずそれらは時とともに薄れていきます。
第二は「衣服垢穢(えぶくくえ)」です。
私たちはすべてが満たされてしまうと、どうしてもこれをしなければならないということはなくなってしまいます。
そうなると、毎日特にこれといってすることもなく、ただのんびりと暮らせば良いということになるのですが、その一方、何もすることがないということは、生活に何の張り合いもないということです。
生活に張り合いがないと、着ている物がたとえどんなに美しい物であっても、そこに緊張というものがないため、全体がだらしなく薄汚れた感じになってしまいます。
第三は「腋下汗流(えきかかんる)」です。
生活に張り合いがなくなると、同時に生きる気力が失われていきます。
そうなると、脇の下に冷や汗を流すようになります。
第四は「両眼瞬眩(りょうがんまたたきくるめく)」です。
これは、肉体の衰えのことです。
天上界に生まれたといっても、身体が衰えていくことはどうにもならないのです。
第五は「不楽本居」です。
これは、自分の今の在り方が喜べない、自分の今あるところが楽しめないということです。
言い換えると「退屈」ということです。
生活していく上で何も困ることもなく、全てが満たされていても、そうなることで生じる「退屈」だけは免れることができないのです。
この「退屈」を別の言葉で言うと「所在がない」という言い方になります。
「所在がない」ということは、私がここに生きているということが周りと何の関係もないということです。
考えてみますと、人間にとってそれほど辛いことはないのではないでしょうか。
私たちは、自分の思いの全てが満たされたことをいつも願っているのですが、それが満たされてしまうと、今度は何もすることがなくなるのです。
確かに、生きていく上では何も心配することはないのですが、その一方、しなければならないことが何もないので、生きていく意欲も気力もなくなってしまうのです。
人間は「所在」、つまりそこに私がいるという意味を求める存在なのです。
ですから、「私がここに生きているということに意味が与えられる」そういう関わりが開かれている時に「所在」と言えるのです。
つまり、私たちは、あれもしたい、これもしたいと、自分の欲望が満たされることを懸命に追い求めているのですが、実はその根底には「所在」を求めるといういのちの願いがあるのです。
そして、「所在」が与えられない時や「所在」を見いだせない時、私たちは生きている意味を失うのです。
そのために、生きている意味を失うと、私たちは生きている喜びも張り合いも何も持てず、ただ日々が過ぎていくということの中に全てが終わってしまいます。
つまり、私たちの中には、自分の思いが満足することよりももっと深くに、私の「いのちの願い」というものがあるのです。
その「いのちの願い」を仏教では「情願」と言います。
そうすると、「所求」ではなく「情願」を満足させるということが、真の意味で生き甲斐、あるいは生きていることの喜びを得ることだと言えます。
したがって、いのちの願いを満足させることが出来たとき、私たちは自分の「本当の居場所」を見出すことができるのです。
その「本当の居場所」は、また「救い」という言葉で表わされています。