では、阿弥陀仏に関して、その真如性を破ることなく、この仏を仏のごとく念ずることのできる念は、私たちにとってどのようにすれば可能になるのでしょうか。
もちろん、私たちの側には、その仏を把握する力は皆無です。
けれども、それ故にこそ、阿弥陀仏は「垂名示形(名を示し形を表すこと)」しておられるのです。
私たちにとって、阿弥陀仏とふれあえる点が、ただ一点だけあります。
それは「南無阿弥陀仏」という仏名において、私たちはまさしく阿弥陀仏そのものを心に抱くことがてぎるのです。
ただし、接点はこの一点しかなく、ここに親鸞聖人が阿弥陀仏に対する他のすべての行為を不如実として「仮」と廃し、名号のみを取り出された理由があります。
南無阿弥陀仏が正念だということは、私たちが真に憶念し信じることができるのは「南無阿弥陀仏」以外には存在しないということを意味しているのです。
とはいえ、もしかすると次のような疑念が提起されるかもしれません。
「私たちは、真如を理解する、あるいは仏の相好を観察することは不可能だとしても、仏徳を憶念し仏の本願力を信じることは可能なのではないか」と。
では、仏徳とは、また本願力とは何でしょうか。
私たちは凡愚には、その徳や力そのものを正しく憶念することなど出来ません。
無限の徳とか、具諸徳本という言葉を通して、たとえその輪郭を想像することは可能だとしても、無限なるものは結局人間のよく覚知しうるところではありません。
さらに、その真の徳を憶念するなと、お呼びもつかないことだといわざるを得ません。
本願に関しても同様であって、存在さえ知り得ない仏の本願力など、真の意味で信じることはできないのです。
では、私たちにとって、憶念し信じることのできるものは何でしょうか。
日頃私たちが関わっているのては、人間の言葉によって表現された思想なり概念を通して、その背後にある徳や力を、心の中で思い起こしたり、信じたりしているだけに過ぎません。
けれども、それは決して仏徳そのもの、または本願力そのものではありません。
阿弥陀仏に関して言えば、経典やその他の、阿弥陀仏についての教説を通して、漠然とそれを知っているだけのことです。
「阿弥陀仏は無限の智慧と慈悲を有する」
「かの仏は限りなき徳をもって、一切衆生を済度する」
「かの仏の本願力は…」
といった表現はありえても、これらの中で、私たちがそのものをそのごとく憶念することができるのは、仏の智慧や慈悲でも、仏徳や本願力でもなく、ただ「南無阿弥陀仏」という仏名だけなのです。
その他は、仏名を通して、仏に付属している属性を、教説によって憶念し信じているのです。
言葉を通しての表現は有限であって、真如そのものではありません。
したがって、もしここで仏名を取り除けば、真如とふれあえる憶念や信心は成立しません。
親鸞聖人の教義の中心は「信心」であり、この点は動かすことはできません。
では、この信は、いったい何に対しての「信」なのでしょうか。
『歎異抄』第一条に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいせて往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもいたつこころのおこる時…」とあります。
「弥陀の誓願不思議」とは、「南無阿弥陀仏によって救われること」に他なりません。
したがって、南無阿弥陀仏によって救われることこそ信の具体的内容だと言えます。
そして、その信じることに先駆けて、南無阿弥陀仏の六字が常に私たちと関わっているのです。
このような意味で「南無阿弥陀仏」という言葉を離れて、単独で「信」とか「憶念」というこは、私たちには存在しないと言えます。