例えば、母の徳を憶念するとか、母の心を信じるという行為と比較すればよく理解できるのではないでしょうか。
母の徳とか愛とかは、あえて母という単語を必要とはしません。
母という語がなくても、私たちは自由に母の姿を見ることができますし、慈しみを憶念することもできます。
なぜなら、その存在自体に、私たちは具体的に接しているからで、信とか憶念とかは、そのものを直接的に憶念し信じることができます。
そのような意味では、「母」という単語は、むしろ行為によってその後に生じるとさえいえます。
けれども「南無阿弥陀仏」はそうではありません。
正真正銘の信、仏徳と不二の憶念、本願力をそのごとく信じる信は、私たちにはありません。
すべてが「南無阿弥陀仏」を通して生起することになります。
そうすると、私たちにとって、まさしく信じ憶念することができるのは、ただ一つ「南無阿弥陀仏」のみとなり、この六字のみが私たちにとっての「正念」でありうるということになります。
正しく念じることができるのは、南無阿弥陀仏以外にはありません。
そのため「南無阿弥陀仏即是正念」なのです。
現象面においてとらえる限り、称名と正念とは明らかに異なった行為です。
また、思想として見ても、語義の上から論じても、この両者に一致点は見出せません。
にもかかわらず、これら二者は「南無阿弥陀仏」ということで、全く重なっているのです。
一者は音声として六字を口に発することであり、他者は憶念として六字を心に思い浮かべるに過ぎません。
そうだとすれば、称名と憶念は、まさしく「即」の字において結ばれることになります。
これは、大行こそが、躍動して堅実界に出現している相を如実に指しているということであり、南無阿弥陀仏が口に発せられる時、称名となり、憶念として心に浮かぶ時、正念となるのです。
こうして、親鸞聖人においては、称名といっても正念といっても、全く同一の内容を意味していることになります。
しかも親鸞聖人は、これを大行と言われます。
では、その大行とは何でしょうか。
最後に、これを改めて問う必要が生じます。
迷妄の中にたたずむ私たちは、本来的に仏の存在を知ることはできません。
そのため、流転の凡愚には、仏を憶念することも、仏の名にふれることも不可能なのです。
にもかかわらず、現実において私たちは仏の名を耳にし、その出会いを通して仏名を呼びかけています。
何がこれを可能にしたのでしょうか。
仏の廻向が、この不可能を可能にしているのです。
愚鈍の私たちに、仏みずからが動いて、私たちの前に南無阿弥陀仏のすがたを示されている。
これこそが、私たちを救うために、無明を破ってあらわれた相に外なりません。
この相をおさえて親鸞聖人は「大行」といわれたのです。
私たちは、仏の存在を知ることはできません。
そのため、仏はまず万人に共通して把握される「すがた」を自ら示さなければなりません。
出体釈で称名があげられ、南無阿弥陀仏の六字を口に称えるところ、そこに「大行」の動く相があると言われたのは、このためだと言えます。
もちろん、この大行は、聞名として私たちが「共に聞く」という場合でもとらえることができます。
これをさらに、私自身の個の問題とするなら、私の心に六字の仏名が思い浮かべられます。
まさしくそこに大行の躍動する相が見られます。
ここにおいて、六字が動くところ、そのすべてが大行だと言いうることになります。
南無阿弥陀仏を耳に聞き、口に称え、目に見、心に思う。
あるいは、五体に触れる。
それらすべてが、私たちのために、無明を破って垂名示形された、大行の相なのです。
「南無阿弥陀仏」、これが大行だとすれば、「融会合釈」の内容は、「具信の称名」を示すというような意味ではなくなります。
ここでは、衆生の獲信を問題にしているのではなく「破満釈」まで、「称名」によって代表せしめていた大行義を、ここで更に徹底せしめ、その相の究極的意義を、この転釈の中で説示しておられるのだと理解することができます。