暑さ寒さも彼岸まで。
間もなく春のお彼岸を迎えます。
「冬来たりなば春遠からじ」と詠われるように、厳しい寒さを知るところにこそ、春の訪れに尚一層の温もりが感じられることであります。
亡き方の思い出を語る時、「生前」という言葉をよく聞かれることと思います。
よくよく思い返してみますと、亡くなる前のことであるはずなのに、なぜ生まれる前と表現するのか。
しかし、そこにこそ仏教の味わい深さが込められてあるような思いがします。
親鸞さまは、自我に生きるのではなく、浄土の真実を知り、生かされている命に目覚めて生きていく人生。
その自覚をこそ「往生浄土」と示されました。
私たちの人生は、ただそのままむなしく終わるのではない。
浄土に往き生まれる命としての味わいの上に、浄土に生まれる前として、「生前」と故人を讃えてこられた先哲の思いを窺い知ることです。
中西智海さんという和上さまが、何とも言えない温かみのある詩を詠んでおられます。
『人は去っても
その人のほほえみは
去らない
人は去っても
その人のことばは
去らない
人は去っても
その人のぬくもりは
去らない
人は去っても
拝む掌(て)の中に
帰ってくる』
名残惜しく思えども、今生の別れは誰もが免れることはできません。
親であったり、友であったり、時として我が子であったり。
けれども、その別れや悲しみの中に、尊い仏縁が恵まれてあります。
後に残る私たちの心に、信仰という大きな灯火が灯ります。
その人の面影、手の温もり、交わした言葉の数々はまさに生きた証として、それぞれご縁のある方の心にいつまでも残るものです。
そして自然と手が合わさる不思議。
そう、人は去っても、拝む掌の中にいつでも帰ってくる。
お浄土に生まれし人にみちびかれ、仏様を拝む身に、今私がお育てを頂く、春のお彼岸といたしましょう。