今年(2015年)は「終戦70年」にあたります。
さまざまな団体での活動やメディアを通してご存知の方々も多いと思います。
以前、東南アジアに位置するアンコール遺跡が世界遺産登録され有名な「カンボジア」という国に行った時のことです。
カンボジアはベトナム戦争をきっかけにカンボジア内戦が勃発。
その後、極端な共産主義を掲げるポル・ポト政権下の下で約4年もの間、大量虐殺や疫病、餓鬼等により200万人以上もの尊い命が奪われた歴史がある国です。
思想改造の名の下で虐殺が行われ、教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者や、その他少しでも異論を唱えるものは捕えられ、強制収容所に送られて虐殺されたそうです。
実はその内戦の影響は、現在でもカンボジアの人々を苦しめています。
内戦が続く間、国のいたる所に「悪魔の兵器」と呼ばれる地雷が無数に埋められたのです。
地雷には以下の特徴があります。
『残虐性』(殺すことよりも怪我をさせることを目的に開発された兵器)
『残存性』(一度埋められたら半永久的に作動する)
『無差別性』(相手を選ばず、生活の場に今も潜んでいる)
地球上に埋設された地雷は約7,000万個、そのうちカンボジアには600万個が確認されていると言われています。
被害は今でも毎日のように続き、その多くは民間人です。
当時、戦争の最前線だった場所も今では生活の場として生きていかなければならない人たちがいます。
地雷博物館で説明を受けたとき、「あの杖をついている子は、お兄さんと外で遊んでいたら被害にあった。
お兄さんは即死でした。」と語られたことを忘れることはできません。
私たちが何気なく過ごしている今でも、戦争の影響を受けている人たちはたくさんいます。
先日、作家・東野圭吾さんの「禁断の魔術」という本を読んでいました。
物語は、両親を幼いころに亡くし、育ててくれた姉を見殺しにされ、天涯孤独となった青年が企てた殺人計画、そして様々な人物の葛藤する姿が描かれています。
その青年の父親は科学研究者で、若い頃に対人地雷の製造に関わる仕事をしていたことが明らかになります。
若かったこともあり、自分のしていることの意味を深く考えず仕事をしていた。
地雷は弾薬と同じで単なる武器の一つ。
戦争がなくならない以上、武器は必要。
その程度の認識だった。
ところがある時、地雷で両足が吹き飛ばされた子どもの姿を目にした。
その子は、その付近に地雷があるとわかっていながらも、家族のための水を汲むにはそこを通らなければならなかった。
そのことを知った時、自らの大きな過ちに気づき、それまでの自分のことを大いに恥じた。
そして研究者としての残りの人生を、過ちを正すことに使うことを決めた。
そんな父親の生涯を知った青年は、自分のしようとしていた大きな過ちに気づきます。
私たちの日常はいかがでしょうか?
今、この日本でも「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定されました。
『仏説無量寿経』というお経には、「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉が出てきます。
「武力も武器も用いる必要が無い」という意味です。
一人一人が仏法をお聞かせいただくことにより、暴力や武力など必要がない、平和で心豊かにいきようとする命の生活をさせていただくことが大切なのではないでしょうか。
手を合わせて合掌する姿は、私はあなたの敵ではないと知らせる姿、相手を敬う姿であるのだとお聞かせいただいたことがあります。
両手をあわせて、南無阿弥陀仏とお念仏をお称えさせていただく私たちの日暮が、本当の命のあり様をお知らせいただくご縁となり、それが多くの命とつながっていけるよう過ごしてまいりたいものです。
合掌