あの後。
御所の大宿直(おおとのい)の公卿たちや、上達部(かんだちべ)の吏員などは、
「どうしたものだろう?」
茫然と、事件の裡に自失して、その処置も方針もつかず、幾日かを、ただ困惑と空しい捜索に暮れていた。
「――仙洞(せんとう)のご帰還までに」
と、最初のうちは、躍起になって、焦心(あせ)ったのである。
だが、松虫の局と鈴虫の局の行方は、あの晩かぎり、杳(よう)としてわからない。
「深草の辺に、あやしげ女房が二人して住んでいるそうな」
そういう報(し)らせに、
「それ」
と、すぐさま衛府の侍を走らせてみると、それは、郷(さと)住まいになったさる武家の姉妹(きょうだい)であった。
「志賀から北国路への道を、被衣(かずき)した若い女がふたり、駅伝の駒を雇って行った」
と、その方面の役人から飛札(ひさつ)が来ると、
「きっと、それだぞ」
と、ばかり、大宿直の公達(きんだち)は、侍をつれて、騎馬で追って行った。
吉報いかに?――と、御所では鳴りをしずめて待っていたが、やがて、四日も過ぎて、へとへとに帰ってきた公達輩(きんだちばら)の話では、
「追いついてみれば、何の事じゃ、越前の庄司が娘と、その腰元ではないか」
告げるほうも、がっかりであったが、聞くほうも落胆した。
――この上はと、今までの秘密の裡に事件をつくろってしまおうとした方針を変えて、中務省捕吏(なかつかさしょうほり)の手も借りて、洛内から近畿にいたるまで触れを出した。
辻には、高札を立て、松虫の局と鈴虫の局の年ごろや面貌(おもざし)を書きそえ、院の衛府まで、そのありかを告げてきた者には、恩賞をとらせるであろうと告示した。
しかし、それを見て、衛府へやってくる民衆の密告が、一つとして、あたっていたものはなかった。
「なんのことじゃ、これでは、よけいに繁雑にたるばかりではないか」
院の吏員たちは、よけいに、方針の混乱をきたして、悲鳴をあげた。
とこうする間に、その月も越えて、十二月の上旬、後鳥羽上皇は、すでに熊野からお帰りになった。
逆鱗(げきりん)は申すまでもない。
お留守をあずかっていた公卿輩(きんだちばら)はもちろんのこと、行幸(みゆき)に従(つ)いてもどった人々も、その御気色(みけしき)に慴伏(しょうふく)して、
「必ずとも詮議(せんぎ)して、日を経ぬうちに、ふたりを捕えて御所へ引き連れますれば――」
と、お答えするほかなかった。
先に、告示された布令(ふれ)は、さらに広く諸国へまでわたった。
そして、恩賞にも、金銀ならば幾額(いくら)、荘園なれば田何枚と、書き加えられた。
大津口の並木の辻にも、その高札をとりまいて、黒山のように人が立っていた、その中に、黙然と腕をくんでいる牢人(ろうにん)ていの男があった。
「――おい、何を見ている?」
ひとりの山伏が、その後から肩をたたいた。牢人ていの男は、かぶっていた笠をくるりと振向けて、
「や、播磨房(はりまぼう)」
笠の下に、笑う歯が見えた。