四郎は、身をひねって、弁円の打ち込んできた杖を小脇へ抱きこんだ。
「何をするッ、弁円」
「知れたことだ。よくも約束を裏切ったな。貴様は、念仏門の魔術にかかったのだ。察するところ、吉水の法然や善信に、こっちの策略を喋舌(しゃべ)ったであろうが」
「元より、何も――かも懺悔した。して悪いか」
「うぬっ、見損なった。もう、生かしてはおけん!」
「うろたえるな、髪は剃り落しても、まだ、天城四郎の腕の力は抜けていねえぞ」
「おもしろい」
弁円は、足をあげて、四郎の腰骨を蹴とばした。
そしてふたたび、杖を持ち直して、りゅうりゅうと暴れまわってくる。
四郎は、跳びさがって、
「心得た」と、法衣(ころも)の袖をたくしあげ、拳(こぶし)をかためて罵(ののし)
った。
「よしっ、こんどは汝(てめえ)を得度してやる。眼を醒ませ」
「しゃら臭い」
ふたりは、ついに、四つになって取っ組んだ。
背に笈(おい)を負っているので弁円の体は自由を欠いていた。
あっ――と声を横に流して並木の根がたへ彼は顔と肩をぶつけていた。
「ざまあ見ろ」
四郎は、そういって、思わず凱歌をあげたが、ふと、自分はもうすでに元の天城四郎ではない念仏門の一弟子であることを思い出して、
(しまった)と思った。
得度をうける時に、かたくかたく戒められていたのである。
我(が)を出すな――我を出すときには必ず元の四郎が出るぞ――御仏をもってそれを抑えろ――それには何事にふれても念仏を怠るな、ここと思う時には念仏をとなえかかれ、そしてそれを、寝る間も、醒めても、不断のものにせよ、おのれのものにせよ――と。
したたかに投げつけられて、額の血と泥とをこすって、無念な顔をしている弁円のすがたを見て、四郎はすぐそれを思い出した。
――彼は、子供が覚えたてのいろはを口誦(くちず)さむようにあわてて、
「な、む、あ、み、だ、仏」
そういって、
「痛かったか弁円」
と、抱き起した。
「ち……」
弁円は、眼に流れこんだ血を、手でこすって、彼に支えられながら、よろりと立ち上がった。
「おいっ、勘弁しろ。おれはもう元の天城四郎じゃなかった、仏弟子だ、このとおり謝る――」
と、頭を下げるとたんに、弁円は起き上がる時につかんでいた杖を真っ向にかむって、
「野郎っ!」
天ぴょう(てんぴょう)からふり落すような力で撲(なぐ)りつけた。
「ウーム……」
さしもの四郎も、二つ三つ、足をよろめかせたまま、ばたっと、そこへ昏倒してしまった。
その背を、弁円は、また、二つ三つ撲りつけた。
それでもなお腹の癒えない様子であったが、ちょうど、河原から堤へ上がってきた人影があったので、見つかっては面倒と思ったのであろう、
「馬鹿野郎、思い知ったか」
そう捨てぜりふを吐き捨てると八ツ乳(やつぢ)の草鞋に砂を蹴って、まっしぐらにどこともなく逃げ去った。
※「八ツ乳(やつぢ)」=乳房が八つあること。特に八つ乳房の跡がある猫の皮のことで、三味線を張るのに珍重された。転じて、三味線のこと。